あの大惨事の事故があったのに、電車に乗り合わせていた運転士たちが救助に当たらず「仕事」を優先したとか、事故の状況を知りながらボーリング大会に行った社員が何十人もいたとか。。。これはもう、とても信じがたいことです。
目の前で血だらけになった人がいて、大勢の人が死んでいるのに、そのまま仕事に行くかなあ。。。しかも、犠牲者らはみな会社のお客です。 そもそもJRというのは「会社」なのだろうか。そして、JRを利用する我々は果たして本当にJRの「お客」なのだろうか。
少なくとも、普通の「会社」では絶対に考えられないことです。会社のお客さんが目の前で犠牲になっている。それを見たら、その日の仕事など放っておいても、なりふり構わず助けないものだろうか。JR社員の行動に対しては腹が立つというより、摩訶不思議で全く理解に苦しみます。
要するに、JRは「会社」ではないのでしょう。一種の大きな無機質の歯車にたとえることが出来るかもしれません。そして一人一人の運転士は、ただただ与えられた勤務内容をこなすことが絶対的使命なのです。それを怠ると歯車が狂ってしまうし、それ以上のことをしても歯車が狂う。つまり、何が起きても与えられたことを単純にやるだけです。
人間の体にたとえると、個々の運転士は全身に酸素を運ぶ赤血球のような立場ということです。だから、人が怪我をしたら白血球(警察・消防)がバイ菌と闘ったりするわけで、自分はあくまでも白血球ではなく赤血球という運搬屋なのだ。だから、特別な指令が出ない限り自分としては全身に酸素を運搬するという日常の業務をひとときも休むわけにはいかないという義務的意識に支配されていると言えるでしょう。
そこには、絶対に時間に遅れてはいけないというプレッシャーや、上司の命令を絶対視しなければいけないという体制があるのでしょう。違反すると罰則やいじめが待っているという恐怖心もあるのかもしれません。 しかし、そういう体制には人間が存在しません。無機質で巨大な歯車の中で、絶対に個人の考えを入れてはいけないという小さな一つの歯車に徹するロボットのような意識しかありません。
JRの対応について、どうしても違和感をぬぐえないものがありましたが、要するにJRは会社ではなく、巨大な「運搬機」だったのであり、個々の運転士はどんなことが目の前で起きようとも上司から与えられた仕事を絶対視して勤務に就く以外に生きる道がないという無機質的な組織であったと考えることによって、その違和感の正体に迫ることが出来るような気がします。
一つ一つの赤血球が全身をかけめぐっても、人間自体が死んでしまっては何にもなりません。JRが本当に人としての体温を感じることのできる「会社」になってくれる日は、果たしてやって来るのでしょうか。 |