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20105

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江本武忠
(えもと・むちゅう)

(2005/05/05(Thu.) 00:34 〜 2005/03/05(Sat.) 22:59)

  JRは会社か否か 2005/05/05(Thu.) 00:34 

あの大惨事の事故があったのに、電車に乗り合わせていた運転士たちが救助に当たらず「仕事」を優先したとか、事故の状況を知りながらボーリング大会に行った社員が何十人もいたとか。。。これはもう、とても信じがたいことです。

目の前で血だらけになった人がいて、大勢の人が死んでいるのに、そのまま仕事に行くかなあ。。。しかも、犠牲者らはみな会社のお客です。
そもそもJRというのは「会社」なのだろうか。そして、JRを利用する我々は果たして本当にJRの「お客」なのだろうか。

少なくとも、普通の「会社」では絶対に考えられないことです。会社のお客さんが目の前で犠牲になっている。それを見たら、その日の仕事など放っておいても、なりふり構わず助けないものだろうか。JR社員の行動に対しては腹が立つというより、摩訶不思議で全く理解に苦しみます。

要するに、JRは「会社」ではないのでしょう。一種の大きな無機質の歯車にたとえることが出来るかもしれません。そして一人一人の運転士は、ただただ与えられた勤務内容をこなすことが絶対的使命なのです。それを怠ると歯車が狂ってしまうし、それ以上のことをしても歯車が狂う。つまり、何が起きても与えられたことを単純にやるだけです。

人間の体にたとえると、個々の運転士は全身に酸素を運ぶ赤血球のような立場ということです。だから、人が怪我をしたら白血球(警察・消防)がバイ菌と闘ったりするわけで、自分はあくまでも白血球ではなく赤血球という運搬屋なのだ。だから、特別な指令が出ない限り自分としては全身に酸素を運搬するという日常の業務をひとときも休むわけにはいかないという義務的意識に支配されていると言えるでしょう。


そこには、絶対に時間に遅れてはいけないというプレッシャーや、上司の命令を絶対視しなければいけないという体制があるのでしょう。違反すると罰則やいじめが待っているという恐怖心もあるのかもしれません。
しかし、そういう体制には人間が存在しません。無機質で巨大な歯車の中で、絶対に個人の考えを入れてはいけないという小さな一つの歯車に徹するロボットのような意識しかありません。

JRの対応について、どうしても違和感をぬぐえないものがありましたが、要するにJRは会社ではなく、巨大な「運搬機」だったのであり、個々の運転士はどんなことが目の前で起きようとも上司から与えられた仕事を絶対視して勤務に就く以外に生きる道がないという無機質的な組織であったと考えることによって、その違和感の正体に迫ることが出来るような気がします。

一つ一つの赤血球が全身をかけめぐっても、人間自体が死んでしまっては何にもなりません。JRが本当に人としての体温を感じることのできる「会社」になってくれる日は、果たしてやって来るのでしょうか。



  「社会全体の心のゆるみ」 2005/04/30(Sat.) 01:25 

尼崎の列車事故は、ついに106名の犠牲者を出しました。
直前の駅のオーバーランで遅れた時間を取り戻そうとしたのか、運転士が猛スピードを出したためカーブを曲がり切れず、空前の転覆脱線事故が起きてしまいました。電車の車体がどんどん軽量化しているため、時速100キロ以上のスピードで固いマンションの壁に当たると原型をとどめないほどに悲惨な形で破壊されました。

遺族の方々は口々に「悔しい」という言葉を使って、やり場のない気持ちを表しておられました。その悔しさは、そもそもこの事故は「防ぐことが可能だったのではないか」という憤りに満ちているように感じられました。遺族の方々の痛ましい声が連日放映されるにつけ、突然に悲惨な形で人生を絶たれてしまう運命の厳しさの前に、絶句するばかりで本当にいたましい思いがこみ上げてきます。
犠牲になられた方々には、ただただご冥福をお祈りするばかりですが、事故の原因究明と今後の対策がしっかり出来なければ、同様の悲劇が起きないという保証は全くありません。

車体の軽量化に伴う脱線の危機管理をもっとやらねばならなかった、制限速度の自動制御装置をつけていなければいけなかった、過密すぎるダイヤについて改善の余地があった、運転士に対するいじめ行為が横行する体質に問題があった、等々いろいろな角度で事故の原因が語られています。

しかしそんな中、ある遺族の方が深い悲しみをこらえながら「自分自身も含めて、社会全体の心のゆるみがこういう事故を起こした」ということを言われていました。私はその言葉に衝撃を受けました。非情な事態に対して心を取り乱しながらも、何と理性的な判断をされる方かと驚き、心を打たれました。

その方が言われる通り、こういう事故は単純な原因によるものではなく、社会全体の心のゆるみが招いたものだと言うべきなのでしょう。運転士の操作ミス、JRの対応の稚拙さ、会社の日常業務のあり方、そういうことだけでなく社会全体が、いろんな意味で重大な危機を迎えているにもかかわらず心がゆるんだまま進行してしまっているのではないか。今回の事故は、そういう内面の危機に対する警告を含んでいるのではないだろうか。

昨年末の大津波で30万人以上の死者が出たではないか。あれは地球と人類の危機ではないのか。環境危機、食料危機、エイズ、大量の失業者、核戦争。。。それらの危機は、気づかないうちに本当は目の前まで差し迫っているのではないのか。突然に多くの人の命が奪われた今回の事故を思う時、この尊い人々の犠牲を真実の教訓に変えていくまでは徹底した追及をやめてはいけない、ということを強く感じます。

社会全体の心のゆるみ。。。ご遺族の方自身の率直な言葉であるだけに、無限の重みを感じました。



  韓国に思想と言論の自由を! 2005/04/27(Wed.) 22:54 

『殴り殺される覚悟で書いた100年ぶりの親日宣言』という本を書かれた歌手の趙英男さんが、「親日派」のゆえに過去13年間司会を務めてきたKBSテレビの『経験!生の現場』を降板せざるを得なくなっています。
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趙さんは、独島問題や教科書問題の対応について、「日本の方が一段上」であると正直に認めておられます。しかし、そういう「親日的なこと」を言うためには、今の韓国においては「殴り殺される覚悟」をしなければいけないという全くひどい状態です。思想も言論も封殺されるという状態を意味しているのでしょう。

私は、趙さんのご意見の内容は別問題として「殴り殺される覚悟」でご自身の考えを堂々と表明される姿勢に対し、日本人として心からの感謝を添えてその勇気を讃えたいと思います。

趙さんはまた、「日本を馬鹿にする国は地球上で韓国しかないと思う。おかしくもあり、物寂しくもある」と、韓国人としては実に言いにくいであろうことを正直に語っておられます。
確かに趙さんの言われる通り、ここまで日本と日本人を馬鹿にする国は、世界中で韓国しかないのかもしれません。中国でも韓国と同様に反日デモはありましたが、現在は過激なデモは取り締まりの対象になっていますし、暴徒化した事例や過激なメールを流した者については逮捕者も出ています。そこには、主義や思想が異なっても友好関係を重視しようとする中国の国際的なバランス感覚も見受けられます。

もちろん、韓国が日本に対して歴史認識や謝罪問題をめぐって反感を持つ理由のあることはよく理解しなければなりません。しかし、かといって「異なる意見」を述べる者の口を封殺したり「殴り殺す」ようなことをすれば、結局は自由な国家とはほど遠い言論弾圧の封建国家になってしまうのではないでしょうか。韓国に一日も早く思想・言論の自由が復帰され、少なくとも「自由に自分の考えを述べることのできる国」になって下さることを切望してやみません。



  国の教科書というもの 2005/04/25(Mon.) 15:57 

韓国も中国も、日本の教科書について文句をつけ、「反日」という名の愛国運動を奨励して政府の延命を図ろうとしているように見受けられます。日本の教科書の内容に諸外国が文句をつける行為が内政干渉に当たるかどうかは別問題として、このたび町村外務大臣が反対に中国の教科書の内容が偏向していることを堂々と主張したことは非常に大きな意味を持っていると私は思います。

町村外相によると、中国の閣僚クラスの人物に「日本の歴史教科書を読んだことはあるか」と質問したところ、正直に「ない」と答えたということでしたが、よく読みもせずに批判するものだと呆れてしまいます。

日本の教科書は、学問・思想の自由に基づく民主主義的な過程を経て民間の学者たちが作成していますが、それに対して韓国・中国の教科書は「国定」または「実質的に国定」という性質のようです。つまり、国家権力に服従した形で作成されている教科書なのです。

学問は民間の学者の研究によってどんどん発達もするし、過去の間違いも発見され修正されていくものです。ですから、民間の力を結集した一つの成果として教科書が作成されている日本に比べて、国家権力の意向に添う形でしか発行されない韓国・中国の教科書がより大きく偏向していることは、誰の目にも明らかではないでしょうか。


今回の中国の反日デモ騒動について、23日付の米国ワシントン・ポストは「中国にほぼ全責任がある」とする社説を出しているようですが、当然すぎるほど当然の判断でしょう。他国の教科書に文句を付け、それを口実に大使館のガラスを割る、民間の建物や商店を破壊する、車を破壊する、人をなぐる蹴る。。。そんな行為が許されるはずがありません。国の考え方を反映した「反日」教科書による洗脳の成果が今回の騒動になっているため、中国はデモをやった人間(=愛国者)の暴力について日本に謝罪することが出来ないのです。

教科書問題についていえば、韓国や中国の歴史教科書を日本語に翻訳して一般に公表するべきだと私は思います。そうすれば、彼らの教科書というものがいかに時代錯誤であり歴史的事実を歪曲したものであるか、いかに国家にとって都合の良いことばかりが書かれているかが明らかになるでしょう。



  中国の反日デモについて 2005/04/19(Tue.) 16:30 

ある中国の愛国系団体(尖閣諸島を中国領土だと主張している団体)がインターネットで中国の若者を扇動し、暴力的なデモをけしかけていることが次第に明らかになってきたようです。

なぜ中国でこれほどインターネットの情報が影響力を持っているかというと、テレビをはじめとして中国には民間のメディアが存在しないからです。

中国政府は共産党の独裁政権ですので、天安門事件以来の徹底した愛国(=反日)教育をやってきた手前、「愛国者」とその扇動に従う若い有権者層を絶対に敵に回わすことができません。だから、口が裂けても日本に謝罪することが出来ない立場です。

もちろんインターネット上で政府を批判するサイトもあったらしいのですが、政府はお得意の強硬な処罰をもって弾圧してしまいました。それで、中国では自由な発言がほとんど出来ない状況になっているのです。その点では、反日運動を自ら扇動して「親日派」の発言を弾圧している韓国の盧武鉉政権とも似ている面があります。

中国政府も、最初は彼らがどんな破壊活動をやっても黙認せざるを得なかったのですが、政府の官僚ではなく現場の市の関係者などはそういうわけにもいかなくなりました。
上海市などは「この反日デモで最も被害を被ったのは国際的にイメージが悪くなった上海市自体である」というコメントを付けて、被害を受けた日本の業者に対する賠償を検討するようになりました。中国にもまともな感覚を持つ人々が存在することに多少の安堵を覚えます。

反日デモによって中国旅行者のキャンセルは1万数千件にのぼっていますが、これは中国にとっても損失でしょう。また、日本の企業や商店を破壊することはごく一部の過激な愛国団体の満足にはなっても、中国自体にとって有益であるとは到底思えません。

ご存じのように、日本はODAによって中国に対して毎年1000億規模の円借款を行なってきましたし、無償援助や技術援助などを合わせると過去25年間で30兆円規模の援助をしてきました。
現在の中国をみていると、明らかに日本を排除しようとしているわけですから、こういう援助の必要性が感じられなくなったとも言えるのではないでしょうか。そういう意味では中国が経済的に自立する機会になるのかもしれません。ましてや中国に渡った日本の援助金がそのまま北朝鮮の支援に回っているという話もありますので、日本もこの辺で中国に対するODAの見直しを検討してもいいのではないかと思います。もっと他にお金の使い方はあるでしょう。

歴史認識についても、中国や韓国が日本に対して、いくら日本の歴史教科書が偏向しているといっても中国や韓国の「国定」教科書の著しい偏向ぶりに比べれば、民間の学者等による客観的な研究成果を反映した日本の教科書の記述のほうが正確なものだと言わざるを得ません。

戦後の日本は「東京裁判」という間違った判決の呪縛からいまだに抜け出ることが出来ていないため、歴史認識について日本自体が曖昧になっている面もあります。この機会に、日本自身も真実の歴史認識に立ち返って国家のあり方を考えるべき時が来ているのではないでしょうか。



  ローマ法王とレーガン大統領 2005/04/08(Fri.) 19:20 

昨年レーガン大統領が93歳で亡くなりましたが、今年はローマ法王が亡くなりました。レーガン大統領とローマ法王は、いずれも神に対する伝統的な信仰を貫かれ、神を否定する共産主義には断固として対処されました。お二人とも言行一致の行動派であったこともよく知られます。

いわば、レーガン大統領はキリスト教世界の外面(国家)を代表し、ローマ法王は内面(教会)を代表しておられたとも言うことも出来るかもしれません。
このお二人は1981年にテロリストによって狙撃されましたが(レーガン大統領は3月30日、ローマ法王は5月13日)、胸や腹などに銃弾を受けながらも奇跡的に回復して世界を驚かせたことは有名です。

ところで、日本のマスコミではあまり報道されませんでしたが、今年の2月13日にファティマ予言で聖母マリアを目撃した最後の生き証人だった修道女ルシア・ドス・サントスさんが97歳で死去されました。
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ファティマ予言というのは、宗教改革(1517年)から400年後の1917年に聖母マリアが出現するようになり、いくつかの予言的な啓示が与えられた事件ですが、予言の中でいわゆる「ファティマ第3の予言」は今もなお未公表のままです。

その秘密の内容を知る人物の一人とされていたローマ法王としては、聖母に出会った生き証人であるサントスさんの死に対して微妙に深いショックを受けられたのではないかと推察されます。

私が思うに、法王は生き証人である彼女が存命中にファティマの予言内容を公表し、更に再臨のキリストを証す使命があったのではないかという気がしてなりません。そういう意味では、もしもその使命を全うされていれば、法王は更なる使命に向かってもう少し寿命を保たれたのかもしれません。しかしそれは神のみぞ知る、という内容でしょう。

ともかく、共産政権崩壊に大きな功績を立てられたレーガン大統領とローマ法王という二人の世界的偉人の死をもって、一つの大きな時代の終焉を見ると同時に、新しい時代の予兆を感じ取ることができるように私には思われます。



  フジテレビの公開アンケートは問題アリ 2005/03/28(Mon.) 14:24 

昨日、フジテレビの緊急特番で「ライブドア経営でニッポン放送の番組はうまくいくのか?」というようなアンケートが行なわれ、「つまらなくなる」の4862件よりも「面白くなる」の5024件のほうが多かったという、フジじとっては実に皮肉な結果がでていました。しかし、これはアンケートの取り方にも非常に問題があったと思います。

このアンケートは、基本的に「携帯メール」から投票することになっていました。携帯メールを活発にやる人々というのは世代的にもまだまだ若い年齢層が主流です。それに比べてニッポン放送に親しんできたラジオ世代の人たちは、もっと年齢層が上であることは明らかで、テレビを見ながらパッパッとメールを打つ世代とはズレがあるのが現状でしょう。

つまり、このアンケートは世代的な公平性や現実のリスナーの意見をまともに反映したものとは言い難く、アンケートの方法自体が失敗であると私は思いました。


ところで、ソフトバンク系列の会社(SBI、北尾CEO)がニッポン放送に替わってフジテレビの筆頭株主になるようですが、もともとソフトバンクの孫社長はフジテレビの日枝会長とは親密な関係であるし、孫社長も北尾CEOもフジの経営自体に(役員を投入するなどして)介入する意思がないことを今の時点から表明しているわけですから、ライブドアのように「うちの人間を役員に入れてくれ」などと交渉してくる会社よりも「乗っ取り」の危険性がはるかに低いことだけは確かでしょう。

マスコミは煽るのが常ですから「今度はソフトバンクがフジテレビを乗っ取るのでは」などと言うのですが、私にはソフトバンク系が大株主になるほうがフジにとっては安全管理の面で有利だと思われます。



  植草元教授に対する判決を考える 2005/03/25(Fri.) 15:04 

昨日(24日)、早大教授だった経済学者・植草一秀被告に対して東京地裁(大熊一之裁判長)は罰金50万円と手鏡1枚没収の判決を出しました。
この事件は、植草被告がエスカレーターで下から女性のスカートの中を手鏡で見ようとしたという大変破廉恥な事件であり、大半の世論としては許し難い犯罪として東京地裁の判決に賛同しているように見受けられます。

確かに、もしもこの犯行が事実だとすれば、その罪に対する罰金50万円という判決は妥当であると私も思うので異論はないのですが、一般的な刑事裁判のあり方という観点から、この判決について2点だけ問題を提起しておこうと思います。

まず第1点ですが、判決内容のうち罰金50万円というのは分かるにしても、罰金の他に「手鏡1枚没収」という処分が下されていることについては、私はちょっと理解に苦しむ気がするのです。
なぜかと言うと、手鏡は凶器でもないし、たとえ被告が所持していたという「その手鏡」を没収したとしても、手鏡などはお店でいつでも手に入れることが可能なものでしょう。それを没収して税金を使って裁判所にずっと保管しなきゃいけない理由が果たしてあるのでしょうか。

それを敢えて没収するというのは、まるで被告を見せしめ(世間の笑い者)にして被告に屈辱的な味わいを過剰に強いる意図がチラチラ感じられるもので、何となく嫌らしい判決のようにも思えます。元大学院の教授であった被告としては、罰金50万円よりも「手鏡没収」のほうが、よほど羞恥心を感じる内容であったことでしょう。被告を逮捕した警察からすれば「ざまあ見ろ」という所でしょうか。


それから第2点ですが、この裁判では被告が事実関係を一貫して否認していることにも十分注意する必要があると思います。憲法38条3項には、本人の自白だけで刑事被告人を有罪にしてはいけないということが書かれていますが、刑事裁判では「自白+自白を裏付ける証拠」をセットにして被告人を有罪にするのが大原則です。もちろん「推定無罪」(推測で人を有罪にしてはいけない)の原則もあります。

ところが、この事件では植草被告本人が「天地神明に誓って絶対にやっていない」と断言しており(つまり自白が無い)、しかも被害者から被害届けがあったわけでもなく、犯行を裏付ける物的証拠(被告が手鏡を使用した事実を証明するもの、防犯カメラの映像など)など一つもありません。

つまり、単に被告の行動を見て「怪しい」と思ったという警察官の証言が信じられるかどうかという問題が争われたわけですが、そこでは刑法も軽犯罪法も適用されず、東京都の迷惑防止法条例に違反しているということで有罪になっているわけです。つまり場所が東京でなかったならば有罪にできなかった可能性もあります。
更に、警察官が目撃したといっても犯行自体を直接目撃したわけでもなく被告自身もエスカレーターに乗っていた時は手鏡を手に持っていなかったと断言しているため、判決文にも「被告人が実際にのぞき見をしたとは断言できない」という認定がなされている点にも注目すべきでしょう。

私は植草被告がテレビで経済問題を論じる場面を何度か見たことはありますが、被告の個人的な行動や趣味には全く関心がありません。また、被告が裁判で真実を述べているか嘘をついているかという事実関係についてすら、特別な関心はありません。そういうことは、植草被告個人に関わる問題だからです。
そんな個人的な問題ではなく、あくまでも私がこの裁判で関心を持つ内容は、刑事被告人が断固として事実を否認している事件において、物的証拠が全く存在せず、単に人の「証言」のみを信じて有罪判決を下すという裁判のあり方が、公平な法律の運営上何の問題もなかったと果たして言えるのだろうか、ということです。


植草被告は車の中にいかがわしいビデオやDVDなどを持っていたと言われていますが、確かにそれは悪趣味であり、いやしくも教育に携わる大学の教官にあるまじき性癖だと非難されてしかるべき内容です。
しかも、植草被告には今回と同じような前科があるとも言われています。警察官もこの人が前科者だということで目をつけて尾行していたのでしょう。しかしながら、悪趣味を持つ前科者だから今回も犯罪を犯したはずだろう、というのは推定に過ぎません。

確かな証拠もなく、犯行事実があったとは断定できないことを裁判所自身も認めているような案件で、単なる人の話や憶測を信用して有罪にされ、社会的地位を失い、世間の笑い者にされ、家族や親戚にも一生涯肩身の狭い思いをして生きなければならない重い刑罰を加える社会というのは、本当に「良い社会」と言うべきなのだろうか。。。
もちろん女性にとっては安心して住める良い社会ということになるのかもしれませんが、私は今回の判決をみて「ちょっと待てよ。この裁き方は少し問題もあるんじゃないだろうか」という違和感を感じました。

マスコミ報道などは「元大学教授による破廉恥な行為」というようなことばかりに関心が向けられているようですが、歴史的にみてこういう判決はやがて全国民の人権問題にも少なからず影響し、思わぬ形で災いとなって降りかかってくる性質もありますので、いい加減にマスコミも個人のスキャンダル次元でこういう問題を取り扱うのではなく、もう少し高次元的な観点に立ってほしいものだと感じる次第です。
日本の警察が「こいつ、怪しい奴だ」というだけで逮捕していた「おいこら警察」の時代は、さほど大昔の話ではありません。もう少し警察の捜査や逮捕、そして刑事裁判のあり方について歴史をふりかえり、冷静に考える機会があってもよいのではないかと私は思います。



  地下鉄サリン事件から10年 2005/03/20(Sun.) 21:22 

今日で、オウム真理教(アーレフ)による地下鉄サリン事件から10年が経ちました。しかし、今なお事件の原因も明らかになっておらず、遺族たちに対する補償も十分になされていません。しかも、オウムの信者は(分派も含めて)インターネットなどを介して増えているとも言われており、最近でもオウム関連の食品工場ができることで住民とのトラブルが発生する事件なども起きています。

したがって、オウム事件は全く解決していないばかりか、現役信者らは今も麻原彰晃を固く信じていますので、今後も同様の事件が起きる可能性は消えていないと言うべきでしょう。

オウムという無差別大量殺人の集団が生き残ってしまった根本的な原因は、オウムに破防法を適用しなかったことです。なぜ破防法が適用されなかったかというと、破防法に猛反対する極左弁護士たち(例えば社民党の福島瑞穂党首の夫など)の力に検察庁が押し切られてしまったからです。

本来、オウム真理教は選挙によって教祖を政界に送り込むことに失敗したため、教団内部に「建設省」「大蔵省」などという疑似国家体制を作り、サリン等の化学兵器を製造して国家転覆を実行しようとした内乱集団ですから、破防法を適用しなければ法律そのものの意味がありません。

それゆえ、オウムの裁判においても単なる殺人罪だけではなく内乱罪(刑法77条)をも同時に適用するべきだったと私は思います。
内乱罪を適用していれば、オウムの疑似国家体制を統率する幹部であった上祐史浩や教団内部の事情を細かく知る立場にあった青山元弁護士などがあのような微罪で済むことなど考えられません。また、教祖の命令には絶対に逆らえないという組織体制の性質を考えれば、殺人という行為に直接関わった実行犯ばかりが重い刑を受けるという裁判のあり方もおかしいのです。それはオウム事件を単なる殺人事件にしてしまったため、その本質が見落とされたということを意味しています。


サリン等の被害者や遺族の方々に対する補償という点から言えば、単なる殺人事件に対して国が補償することはできませんが(実際オウムに対する国の補償はありません)、もしもオウムに対して内乱罪を適用していれば、内乱罪の相手は国家ですから、被害者や遺族に対して国家が補償するという予算も出しやすかったのではないかと私は思います。

ところが、極左弁護士によって破防法適用が阻止されたためにオウムは「アーレフ」という名前で存続することとなり、被害の補償を受ける必要のある被害者や遺族たちは、「今後もオウムが存続し、頑張って補償をしてくれなくては困る」という、まことに奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な立場に置かれる構造が生じてしまったのです。これではオウムが壊滅するどころか、彼らに存続・発展の必要性を与えているようなものです。

オウム問題は、その後の犯罪の傾向にも大きな影響を与えたと言えます。犯罪の低年齢化、理由なき殺人、ごく普通の人間が突然恐るべき犯罪を犯す。。。こういう異常な犯罪が多発するようになった背景には、いまだにオウム事件が未解決であるという問題が微妙に影響していることは間違いないことでしょう。

テレビでコメントをするジャーナリストは、例えば元共産党員であったりして、左翼思想に染まっているケースが多く見られます。少なくとも宗教の本質や精神世界の深い一面に触れるようなコメントを一度も聞いたことがありません。

戦後日教組などの左翼教育により、「宗教」と言うだけで胡散臭いものという偏見を持つ傾向が日本社会に定着しました。その反省から、最近では憲法や教育関係の問題が論じられる際にも宗教教育の大切さが次第に説かれるようになったことは高く評価しうると思いますが、更に一歩進んで、真実の宗教というものはいかなるものか、私たちの人生の目的は何か、というような宗教レベルの議論が国民の間でなされる必要があると思います。

宗教は人間が必要とする精神世界の根本に関わるものであるだけに、まさに「諸刃の剣」であると言わねばなりません。オウム事件が起きた原因を真に突き詰めて、二度と悲惨な過ちを繰り返さないためにも、国民の宗教理解を深めることが今後の重要な課題になってくるでしょう。



  社民党内部に労働組合! 2005/03/16(Wed.) 14:41 

社民党から不当に解雇されたと主張する人々が党内に労働組合を結成し、福島瑞穂党首に対して団体交渉を申し入れるという前代未聞の出来事が起きました。[Click Here!]

社民党は「労働者の味方」というイメージだったような気もしますが、今や何の思想も理念もない政党になり果ててきたようです。

本来は、社民党(旧社会党)は「反共」であると同時にキリスト教精神を基盤とした政党だったのです。それが極端な左翼弁護士である福島氏が党首になったりして、もう何が何だか訳のわからない思想の政党になっちゃった。

社会党初代委員長だった片山哲・元首相も弁護士でしたが、福島党首のような左翼弁護士ではなく、反共主義に徹したクリスチャン弁護士でした。党設立の理念を見失った今日、社民党の内部で労使問題が発生するという現象は決して不可解なことでもないのでしょう。

片山哲首相についての私の考えはこちら。[Click Here!]



  フジ経営者は「クズだ」という発言に見られる本音 2005/03/15(Tue.) 00:30 

最近、ライブドアの堀江社長や相棒である村上ファンドの代表者がコメントをする場面をテレビで見ていて少々思うことがあります。

堀江社長はニッポン放送に対し、時間外取引という制度に存在した法律上の「不備」を悪用した奇襲作戦によって「敵対的買収」をしたわけですが、実際には「敵対的」に乗っ取りをしようとしつつ顔ではニコニコして「仲良くやりましょう」というのでは、やっぱり誰がみても心と顔が全く違うことがミエミエではないかという気持ちが強くなってまいります。

「やってはいけないのならば、法律にきちんと書いておいてほしい」などと言った堀江社長の理屈を聞くと、ストーブを背負ってやけどをした人が「これを背負うなと商品に書いていないからいけないのだ」と言って損害賠償請求の裁判を起こして勝訴した変なアメリカ人の裁判を思い起こします。しかし、何でもアメリカの真似をすればいいというものでもないでしょう。

堀江社長と組んでいるM&Aコンサルティング企業(通称村上ファンド)の村上世彰(よしあき)代表は、12日に行なわれた都内のセミナーで「フジテレビの経営者はクズだ」という趣旨の侮辱的な発言をしましたが、私は「やっと彼らの本音が出たなあ」と思いました。

つまり、彼らは自分たち以外の経営者は時代遅れであり、無価値の「クズ」にしか見えないのです。彼らは東大を出て優秀なのかもしれないし、金儲けも上手なのかもしれませんが、それにしてもそこまで人を見下す彼らの精神はむしろ病んでいると言わねばなりません。


堀江さんは「法律の不備を突いた」という発言をされ、「将棋で言えば既に詰んでいる」と挑発し、「フジテレビを支配する」、「テレビを殺す」などという暴言とも言うべき言葉を浴びせてきましたが、とても将来の日本の文化の担い手とは思えません。企業売買について智恵がある、というだけの話です。

堀江社長が野球の球団を買い取ろうとした際にも、「ライブドアはアダルトを販売している」という事実を暴露され、何の釈明もできませんでした。この人が本当に健全な文化の構築を考えている人なのかどうか、こういう人たちに本当に公共の電波を任せてよいのだろうか、法律問題もさることながら、そういうことをよく見極める必要があると思います。放送会社というものが一般企業と大きく性質が異なることは明らかだからです。

彼らはアメリカ流の企業売買を真似していると考えているのかもしれません。しかし、アメリカの事情に詳しいデーブ・スペクター氏は日本テレビの番組「ザ・ワイド」で、村上氏の「クズ発言」を強く非難し、「ああいうことは絶対に言うべきでないし、彼らがやっていることは本当の企業買収ではない」ということを説明しているのを見て、私は日本人として恥ずかしく感じました。

日本人の持つ道徳性の高さを土台にして、お互いに信頼し合いながら「もの創り」をしていく日本的経営の良さというものを、わざわざアメリカ人から教えられなきゃいけない時代になったのかと思うと、何だか寂しくなってしまいます。



  ライブドア判決 2005/03/14(Mon.) 00:19 

11日、ライブドアがニッポン放送に勝訴しました。その結果、ニッポン放送の新株予約権発行は当面差し止められることとなりました。ところで、今回の判決に対してはいろいろな意見が飛び交っていますが、大量の新株予約権の発行が認められなかったこと自体は仕方ないとしても、あの判決文の内容には私個人としては若干の不満を感じます。

確かに、裁判所の言うようにニッポン放送のなした行為は表面的には合理性に乏しい(特に増資の必要性の根拠や企業価値が守られる根拠が薄い)のですが、だからといって一方的に「著しく不当である」などと判示したのは今回に限って言えば的が外れているように感じます。

否、的はずれというよりも「優等生的な判決」と言うべきかもしれません。なぜなら、そういう風に単純に現行法を適用したような判決さえ書いておけば、少なくとも裁判官としてのリスクは消えるからです。

しかし実際は、今回の争点はそういう単純なものではなかったのです。ライブドアが行なった時間外取引という行為をめぐって現行法上の「不備」があったからこそ国会で緊急に法改正をしなければならなくなったのであり、ニッポン放送としては法制度の「不備」から身を守るために緊急避難的な行動(新株予約権発行)を余儀なくされたという事情があったわけです。
つまり、ニッポン放送の行為は現行法の不備に対処するために不可避的に生じた防衛行為だったわけですから、裁判所はそういう現行法上の明らかな「不備」については相当程度に判決内容に反映させてしかるべきなのです。それが公平な判断というものでしょう(例えば新株予約権の全てについて差し止めるのではなく、発行株数を合理的な範囲に制限するような判決もあり得たと思うし、更にもっと現実的な判決も考えられたと思います)。


ここでふと思い出すのは、むかし栗栖弘臣さんという自衛隊の統幕議長が「法令上は正当とは言えなくても、敵が攻めてきたら身を守るために超法規的に防衛せざるを得ない」と発言したことです。今回のニッポン放送の新株予約権発行は、栗栖発言の「超法規的な防衛」という概念に近いのではないかと私は考えます。

テレ朝の「サンデープロジェクト」という番組では永沢という弁護士とどっかの大学助教授が出て今回の判決を高く評価し、田原という司会者がニッポン放送側の弁護士(久保利弁護士)をまるで能無し弁護士であるかのように酷評していましたが、アンフェアな朝日体質がモロに出ていたと思います。朝日は誤報記事を書いて四方八方から批判されたので、負けた奴を叩いて気を晴らそうということかもしれません。

しかし、もちろん世の中の良識ある人々は永沢弁護士のような考えの方ばかりではありません。例えばエコノミストの紺谷典子氏(日本証券経済研究所主任研究員)は、今回の判決について「金融庁や証券界はフジテレビのやり方(企業防衛)を認め、ライブドアのやり方を認めない法改正をしていこうという流れになっているのに、その流れの逆をいくような判断だ」と述べておられますが、こういう考え方こそ現実社会の流れに即した妥当な見識ではないだろうか、と私には思われます。



  麻生大臣の発言、おまけ 2005/03/11(Fri.) 12:45 

麻生大臣のことを書いたので、ついでに少し書きます。

先日テレビを見ていると、ライブドアの堀江社長が行なった株式の時間外取引について麻生総務大臣が「あれは違法じゃない。きわめて合法」と答えておられました。このご発言はたとえ個人的な意見であるにしても、現職の総務大臣としてはどうかなあ、と思いました。

なぜかというと、ライブドアの時間外取引には様々な法解釈上の問題があり、裁判の相手方であるニッポン放送もこれについて「きわめて違法性が高い」ということで争っているものです。ですから、今は総務大臣が「違法か合法か」という判断を表明するのではなく、あくまでも司法の判断に任せるという姿勢を示すべきなのでしょう。

それに、ライブドアのやった時間外取引に問題があるからこそ政府は緊急に証券取引法を改正して時間外取引の規制を強化するわけですから、その問題の行動について現職の総務大臣が「きわめて合法」などと断定的に言うのは考えものじゃないだろうか。

私は麻生総務大臣の政治手腕は高く評価できる面があると思うのですが、オフレコ的なご発言には率直に言って問題もあるような気がします。



  NHK問題と麻生総務大臣の発言 2005/03/10(Thu.) 12:45 

昨日、NHKの元チーフプロデューサー・磯野克巳容疑者に対する5回目の逮捕ということで、これで詐欺でだまし取った金額が1億6000万円ぐらいになるとのこと。全く呆れてしまいます。

この人があと何回ぐらい逮捕されるのか知りませんが、こんな風に少しづつ自供するのではなく、最初の逮捕で全部しゃべってほしいなあという気がします。しかも、だまし取ったお金の行き先が不倫相手の愛人に宛てられていたということですから、先ごろ朝日新聞の誤報の発端となったヘンなNHKプロデューサーの件と合わせて考えると、NHKのプロデューサーには倫理観というものが全くないのかと疑ってしまいます。

また、NHKも変ですが、この事件を受けて答弁した麻生総務大臣の発言も変だと思いました。NHK受信料の件で、麻生大臣は国民の「善意だけでは成り立たない」という趣旨の発言をされ、国民に対する罰則を設けることを検討するとおっしゃるのです。

これはしかし、全くの本末転倒ではないかと思います。麻生大臣が言うようにNHK受信料は国民の「善意」によって成り立っているわけですが、その国民の善意を踏みにじって来たのはNHKのほうです。今回の事件は磯野容疑者一人の問題ではなくNHKの組織的な問題であることは明らかでしょう。いわばNHKが組織ぐるみで国民の善意を裏切り、騙し続けてきたと言わねばなりません。
もしも国民の善意に問題があって今回の事件が発生したのならば、麻生大臣の言うように国民を罰する規定を検討するのも仕方ないでしょう。しかし、事実は全く逆なのです。むしろ、NHKおよびそれを監督する国側の責任内容を明らかにして国民の納得のゆく改善策を示すことが先決であることは明らかです。


国民が正当な理由があって怒っている時に、逆にその国民を罰する法律を作ろうというような麻生総務大臣の発言は、正気の沙汰ではないように私には思えてしまいます。



  堤帝国の崩壊と丸井の3代目社長 2005/03/05(Sat.) 22:59 

リゾートやホテル事業などで一大帝国を築き上げた堤義明元会長が今月3日、逮捕されました。これは、いろいろな意味で衝撃的なことです。福田派―安倍派―三塚派―森派―小泉首相に至る流れ、すなわち「清和会」の事務所自体が赤坂プリンスホテル内にあることからしても、堤さんと政治家とのつながりがいかに濃かったかということが知られますし、実際に堤さんには政界・財界を上手に操っていた時期もあったのでしょう。

このたび堤さんが逮捕された容疑内容について細かく問題にすることに、私はあまり大きな意義を感じません。というよりも、問題の本質はもっともっと大局的な見地に立たないと見えてこないように思うのです。

堤義明さんは2代目社長でした。慶応ボーイのエリートで、親から莫大な資産を受け継ぎ、ワンマン社長という立場で出発したことはよく知られるところです。まさに「プリンスホテル」の名前にふさわしくプリンスの人生でした。しかし、今回の逮捕により堤家の流れは2代で崩壊したといえます。

非常に興味深いことは、堤さんが逮捕された日と同じ3日、丸井の青井忠雄社長が長男の浩氏を3代目社長にすることを発表したことです。西武は2代目で崩壊の危機に立ち、丸井は同じ日に3代目の就任発表があった。。。偶然にしては、あまりにも対照的な出来事であり、深く考えさせられるものがあります。堤義明さんは70歳、青井忠雄さんは72歳で同世代ですが、経営者としてはお互いに全く異質なものでした。

丸井の2代目社長・青井忠雄さんの場合、2代目といっても初代社長であった父親は長男忠雄さんを「中野忠雄」という別名で一社員として入社させ、周りから「社長の息子」という特別な扱いを受けないようにして商いの道で徹底的に苦労させました。そして、周りの誰もが認める実績を示した上で2代目社長になったのが忠雄さんでした。


青井忠雄さんの功績といえば、すぐに思い浮かぶのは「月賦の丸井」という暗かったイメージから一転して「クレジット」という言葉を普及させ、「月賦」で支払うのは現金払いよりも逆に信用(クレジット)があるのだという大きな発想の転換を国民に定着させたことでしょう。そして、「クレジットの丸井」は飛躍的に発展しました。それはまさに売り手と買い手の気持ちが働く現場からの発想だったと言えるでしょう。

今回の堤氏逮捕は何か一つの大きな時代の区切りのように思えて仕方ありません。21世紀のビジネスのあり方を問われる時だと言えるのでしょう。丸井の3代目社長となる青井浩氏も堤氏と同じく慶応ボーイのエリートですが、父親忠雄さんのように現場から叩き上げた商いの精神を受け継ぎ、売り手と買い手の庶民感覚から決して離れないような事業を展開してくれるよう、私は期待しています。




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