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20105

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江本武忠
(えもと・むちゅう)

(2005/04/08(Fri.) 19:20 〜 2005/02/13(Sun.) 12:04)

  ローマ法王とレーガン大統領 2005/04/08(Fri.) 19:20 

昨年レーガン大統領が93歳で亡くなりましたが、今年はローマ法王が亡くなりました。レーガン大統領とローマ法王は、いずれも神に対する伝統的な信仰を貫かれ、神を否定する共産主義には断固として対処されました。お二人とも言行一致の行動派であったこともよく知られます。

いわば、レーガン大統領はキリスト教世界の外面(国家)を代表し、ローマ法王は内面(教会)を代表しておられたとも言うことも出来るかもしれません。
このお二人は1981年にテロリストによって狙撃されましたが(レーガン大統領は3月30日、ローマ法王は5月13日)、胸や腹などに銃弾を受けながらも奇跡的に回復して世界を驚かせたことは有名です。

ところで、日本のマスコミではあまり報道されませんでしたが、今年の2月13日にファティマ予言で聖母マリアを目撃した最後の生き証人だった修道女ルシア・ドス・サントスさんが97歳で死去されました。
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ファティマ予言というのは、宗教改革(1517年)から400年後の1917年に聖母マリアが出現するようになり、いくつかの予言的な啓示が与えられた事件ですが、予言の中でいわゆる「ファティマ第3の予言」は今もなお未公表のままです。

その秘密の内容を知る人物の一人とされていたローマ法王としては、聖母に出会った生き証人であるサントスさんの死に対して微妙に深いショックを受けられたのではないかと推察されます。

私が思うに、法王は生き証人である彼女が存命中にファティマの予言内容を公表し、更に再臨のキリストを証す使命があったのではないかという気がしてなりません。そういう意味では、もしもその使命を全うされていれば、法王は更なる使命に向かってもう少し寿命を保たれたのかもしれません。しかしそれは神のみぞ知る、という内容でしょう。

ともかく、共産政権崩壊に大きな功績を立てられたレーガン大統領とローマ法王という二人の世界的偉人の死をもって、一つの大きな時代の終焉を見ると同時に、新しい時代の予兆を感じ取ることができるように私には思われます。



  フジテレビの公開アンケートは問題アリ 2005/03/28(Mon.) 14:24 

昨日、フジテレビの緊急特番で「ライブドア経営でニッポン放送の番組はうまくいくのか?」というようなアンケートが行なわれ、「つまらなくなる」の4862件よりも「面白くなる」の5024件のほうが多かったという、フジじとっては実に皮肉な結果がでていました。しかし、これはアンケートの取り方にも非常に問題があったと思います。

このアンケートは、基本的に「携帯メール」から投票することになっていました。携帯メールを活発にやる人々というのは世代的にもまだまだ若い年齢層が主流です。それに比べてニッポン放送に親しんできたラジオ世代の人たちは、もっと年齢層が上であることは明らかで、テレビを見ながらパッパッとメールを打つ世代とはズレがあるのが現状でしょう。

つまり、このアンケートは世代的な公平性や現実のリスナーの意見をまともに反映したものとは言い難く、アンケートの方法自体が失敗であると私は思いました。


ところで、ソフトバンク系列の会社(SBI、北尾CEO)がニッポン放送に替わってフジテレビの筆頭株主になるようですが、もともとソフトバンクの孫社長はフジテレビの日枝会長とは親密な関係であるし、孫社長も北尾CEOもフジの経営自体に(役員を投入するなどして)介入する意思がないことを今の時点から表明しているわけですから、ライブドアのように「うちの人間を役員に入れてくれ」などと交渉してくる会社よりも「乗っ取り」の危険性がはるかに低いことだけは確かでしょう。

マスコミは煽るのが常ですから「今度はソフトバンクがフジテレビを乗っ取るのでは」などと言うのですが、私にはソフトバンク系が大株主になるほうがフジにとっては安全管理の面で有利だと思われます。



  植草元教授に対する判決を考える 2005/03/25(Fri.) 15:04 

昨日(24日)、早大教授だった経済学者・植草一秀被告に対して東京地裁(大熊一之裁判長)は罰金50万円と手鏡1枚没収の判決を出しました。
この事件は、植草被告がエスカレーターで下から女性のスカートの中を手鏡で見ようとしたという大変破廉恥な事件であり、大半の世論としては許し難い犯罪として東京地裁の判決に賛同しているように見受けられます。

確かに、もしもこの犯行が事実だとすれば、その罪に対する罰金50万円という判決は妥当であると私も思うので異論はないのですが、一般的な刑事裁判のあり方という観点から、この判決について2点だけ問題を提起しておこうと思います。

まず第1点ですが、判決内容のうち罰金50万円というのは分かるにしても、罰金の他に「手鏡1枚没収」という処分が下されていることについては、私はちょっと理解に苦しむ気がするのです。
なぜかと言うと、手鏡は凶器でもないし、たとえ被告が所持していたという「その手鏡」を没収したとしても、手鏡などはお店でいつでも手に入れることが可能なものでしょう。それを没収して税金を使って裁判所にずっと保管しなきゃいけない理由が果たしてあるのでしょうか。

それを敢えて没収するというのは、まるで被告を見せしめ(世間の笑い者)にして被告に屈辱的な味わいを過剰に強いる意図がチラチラ感じられるもので、何となく嫌らしい判決のようにも思えます。元大学院の教授であった被告としては、罰金50万円よりも「手鏡没収」のほうが、よほど羞恥心を感じる内容であったことでしょう。被告を逮捕した警察からすれば「ざまあ見ろ」という所でしょうか。


それから第2点ですが、この裁判では被告が事実関係を一貫して否認していることにも十分注意する必要があると思います。憲法38条3項には、本人の自白だけで刑事被告人を有罪にしてはいけないということが書かれていますが、刑事裁判では「自白+自白を裏付ける証拠」をセットにして被告人を有罪にするのが大原則です。もちろん「推定無罪」(推測で人を有罪にしてはいけない)の原則もあります。

ところが、この事件では植草被告本人が「天地神明に誓って絶対にやっていない」と断言しており(つまり自白が無い)、しかも被害者から被害届けがあったわけでもなく、犯行を裏付ける物的証拠(被告が手鏡を使用した事実を証明するもの、防犯カメラの映像など)など一つもありません。

つまり、単に被告の行動を見て「怪しい」と思ったという警察官の証言が信じられるかどうかという問題が争われたわけですが、そこでは刑法も軽犯罪法も適用されず、東京都の迷惑防止法条例に違反しているということで有罪になっているわけです。つまり場所が東京でなかったならば有罪にできなかった可能性もあります。
更に、警察官が目撃したといっても犯行自体を直接目撃したわけでもなく被告自身もエスカレーターに乗っていた時は手鏡を手に持っていなかったと断言しているため、判決文にも「被告人が実際にのぞき見をしたとは断言できない」という認定がなされている点にも注目すべきでしょう。

私は植草被告がテレビで経済問題を論じる場面を何度か見たことはありますが、被告の個人的な行動や趣味には全く関心がありません。また、被告が裁判で真実を述べているか嘘をついているかという事実関係についてすら、特別な関心はありません。そういうことは、植草被告個人に関わる問題だからです。
そんな個人的な問題ではなく、あくまでも私がこの裁判で関心を持つ内容は、刑事被告人が断固として事実を否認している事件において、物的証拠が全く存在せず、単に人の「証言」のみを信じて有罪判決を下すという裁判のあり方が、公平な法律の運営上何の問題もなかったと果たして言えるのだろうか、ということです。


植草被告は車の中にいかがわしいビデオやDVDなどを持っていたと言われていますが、確かにそれは悪趣味であり、いやしくも教育に携わる大学の教官にあるまじき性癖だと非難されてしかるべき内容です。
しかも、植草被告には今回と同じような前科があるとも言われています。警察官もこの人が前科者だということで目をつけて尾行していたのでしょう。しかしながら、悪趣味を持つ前科者だから今回も犯罪を犯したはずだろう、というのは推定に過ぎません。

確かな証拠もなく、犯行事実があったとは断定できないことを裁判所自身も認めているような案件で、単なる人の話や憶測を信用して有罪にされ、社会的地位を失い、世間の笑い者にされ、家族や親戚にも一生涯肩身の狭い思いをして生きなければならない重い刑罰を加える社会というのは、本当に「良い社会」と言うべきなのだろうか。。。
もちろん女性にとっては安心して住める良い社会ということになるのかもしれませんが、私は今回の判決をみて「ちょっと待てよ。この裁き方は少し問題もあるんじゃないだろうか」という違和感を感じました。

マスコミ報道などは「元大学教授による破廉恥な行為」というようなことばかりに関心が向けられているようですが、歴史的にみてこういう判決はやがて全国民の人権問題にも少なからず影響し、思わぬ形で災いとなって降りかかってくる性質もありますので、いい加減にマスコミも個人のスキャンダル次元でこういう問題を取り扱うのではなく、もう少し高次元的な観点に立ってほしいものだと感じる次第です。
日本の警察が「こいつ、怪しい奴だ」というだけで逮捕していた「おいこら警察」の時代は、さほど大昔の話ではありません。もう少し警察の捜査や逮捕、そして刑事裁判のあり方について歴史をふりかえり、冷静に考える機会があってもよいのではないかと私は思います。



  地下鉄サリン事件から10年 2005/03/20(Sun.) 21:22 

今日で、オウム真理教(アーレフ)による地下鉄サリン事件から10年が経ちました。しかし、今なお事件の原因も明らかになっておらず、遺族たちに対する補償も十分になされていません。しかも、オウムの信者は(分派も含めて)インターネットなどを介して増えているとも言われており、最近でもオウム関連の食品工場ができることで住民とのトラブルが発生する事件なども起きています。

したがって、オウム事件は全く解決していないばかりか、現役信者らは今も麻原彰晃を固く信じていますので、今後も同様の事件が起きる可能性は消えていないと言うべきでしょう。

オウムという無差別大量殺人の集団が生き残ってしまった根本的な原因は、オウムに破防法を適用しなかったことです。なぜ破防法が適用されなかったかというと、破防法に猛反対する極左弁護士たち(例えば社民党の福島瑞穂党首の夫など)の力に検察庁が押し切られてしまったからです。

本来、オウム真理教は選挙によって教祖を政界に送り込むことに失敗したため、教団内部に「建設省」「大蔵省」などという疑似国家体制を作り、サリン等の化学兵器を製造して国家転覆を実行しようとした内乱集団ですから、破防法を適用しなければ法律そのものの意味がありません。

それゆえ、オウムの裁判においても単なる殺人罪だけではなく内乱罪(刑法77条)をも同時に適用するべきだったと私は思います。
内乱罪を適用していれば、オウムの疑似国家体制を統率する幹部であった上祐史浩や教団内部の事情を細かく知る立場にあった青山元弁護士などがあのような微罪で済むことなど考えられません。また、教祖の命令には絶対に逆らえないという組織体制の性質を考えれば、殺人という行為に直接関わった実行犯ばかりが重い刑を受けるという裁判のあり方もおかしいのです。それはオウム事件を単なる殺人事件にしてしまったため、その本質が見落とされたということを意味しています。


サリン等の被害者や遺族の方々に対する補償という点から言えば、単なる殺人事件に対して国が補償することはできませんが(実際オウムに対する国の補償はありません)、もしもオウムに対して内乱罪を適用していれば、内乱罪の相手は国家ですから、被害者や遺族に対して国家が補償するという予算も出しやすかったのではないかと私は思います。

ところが、極左弁護士によって破防法適用が阻止されたためにオウムは「アーレフ」という名前で存続することとなり、被害の補償を受ける必要のある被害者や遺族たちは、「今後もオウムが存続し、頑張って補償をしてくれなくては困る」という、まことに奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な立場に置かれる構造が生じてしまったのです。これではオウムが壊滅するどころか、彼らに存続・発展の必要性を与えているようなものです。

オウム問題は、その後の犯罪の傾向にも大きな影響を与えたと言えます。犯罪の低年齢化、理由なき殺人、ごく普通の人間が突然恐るべき犯罪を犯す。。。こういう異常な犯罪が多発するようになった背景には、いまだにオウム事件が未解決であるという問題が微妙に影響していることは間違いないことでしょう。

テレビでコメントをするジャーナリストは、例えば元共産党員であったりして、左翼思想に染まっているケースが多く見られます。少なくとも宗教の本質や精神世界の深い一面に触れるようなコメントを一度も聞いたことがありません。

戦後日教組などの左翼教育により、「宗教」と言うだけで胡散臭いものという偏見を持つ傾向が日本社会に定着しました。その反省から、最近では憲法や教育関係の問題が論じられる際にも宗教教育の大切さが次第に説かれるようになったことは高く評価しうると思いますが、更に一歩進んで、真実の宗教というものはいかなるものか、私たちの人生の目的は何か、というような宗教レベルの議論が国民の間でなされる必要があると思います。

宗教は人間が必要とする精神世界の根本に関わるものであるだけに、まさに「諸刃の剣」であると言わねばなりません。オウム事件が起きた原因を真に突き詰めて、二度と悲惨な過ちを繰り返さないためにも、国民の宗教理解を深めることが今後の重要な課題になってくるでしょう。



  社民党内部に労働組合! 2005/03/16(Wed.) 14:41 

社民党から不当に解雇されたと主張する人々が党内に労働組合を結成し、福島瑞穂党首に対して団体交渉を申し入れるという前代未聞の出来事が起きました。[Click Here!]

社民党は「労働者の味方」というイメージだったような気もしますが、今や何の思想も理念もない政党になり果ててきたようです。

本来は、社民党(旧社会党)は「反共」であると同時にキリスト教精神を基盤とした政党だったのです。それが極端な左翼弁護士である福島氏が党首になったりして、もう何が何だか訳のわからない思想の政党になっちゃった。

社会党初代委員長だった片山哲・元首相も弁護士でしたが、福島党首のような左翼弁護士ではなく、反共主義に徹したクリスチャン弁護士でした。党設立の理念を見失った今日、社民党の内部で労使問題が発生するという現象は決して不可解なことでもないのでしょう。

片山哲首相についての私の考えはこちら。[Click Here!]



  フジ経営者は「クズだ」という発言に見られる本音 2005/03/15(Tue.) 00:30 

最近、ライブドアの堀江社長や相棒である村上ファンドの代表者がコメントをする場面をテレビで見ていて少々思うことがあります。

堀江社長はニッポン放送に対し、時間外取引という制度に存在した法律上の「不備」を悪用した奇襲作戦によって「敵対的買収」をしたわけですが、実際には「敵対的」に乗っ取りをしようとしつつ顔ではニコニコして「仲良くやりましょう」というのでは、やっぱり誰がみても心と顔が全く違うことがミエミエではないかという気持ちが強くなってまいります。

「やってはいけないのならば、法律にきちんと書いておいてほしい」などと言った堀江社長の理屈を聞くと、ストーブを背負ってやけどをした人が「これを背負うなと商品に書いていないからいけないのだ」と言って損害賠償請求の裁判を起こして勝訴した変なアメリカ人の裁判を思い起こします。しかし、何でもアメリカの真似をすればいいというものでもないでしょう。

堀江社長と組んでいるM&Aコンサルティング企業(通称村上ファンド)の村上世彰(よしあき)代表は、12日に行なわれた都内のセミナーで「フジテレビの経営者はクズだ」という趣旨の侮辱的な発言をしましたが、私は「やっと彼らの本音が出たなあ」と思いました。

つまり、彼らは自分たち以外の経営者は時代遅れであり、無価値の「クズ」にしか見えないのです。彼らは東大を出て優秀なのかもしれないし、金儲けも上手なのかもしれませんが、それにしてもそこまで人を見下す彼らの精神はむしろ病んでいると言わねばなりません。


堀江さんは「法律の不備を突いた」という発言をされ、「将棋で言えば既に詰んでいる」と挑発し、「フジテレビを支配する」、「テレビを殺す」などという暴言とも言うべき言葉を浴びせてきましたが、とても将来の日本の文化の担い手とは思えません。企業売買について智恵がある、というだけの話です。

堀江社長が野球の球団を買い取ろうとした際にも、「ライブドアはアダルトを販売している」という事実を暴露され、何の釈明もできませんでした。この人が本当に健全な文化の構築を考えている人なのかどうか、こういう人たちに本当に公共の電波を任せてよいのだろうか、法律問題もさることながら、そういうことをよく見極める必要があると思います。放送会社というものが一般企業と大きく性質が異なることは明らかだからです。

彼らはアメリカ流の企業売買を真似していると考えているのかもしれません。しかし、アメリカの事情に詳しいデーブ・スペクター氏は日本テレビの番組「ザ・ワイド」で、村上氏の「クズ発言」を強く非難し、「ああいうことは絶対に言うべきでないし、彼らがやっていることは本当の企業買収ではない」ということを説明しているのを見て、私は日本人として恥ずかしく感じました。

日本人の持つ道徳性の高さを土台にして、お互いに信頼し合いながら「もの創り」をしていく日本的経営の良さというものを、わざわざアメリカ人から教えられなきゃいけない時代になったのかと思うと、何だか寂しくなってしまいます。



  ライブドア判決 2005/03/14(Mon.) 00:19 

11日、ライブドアがニッポン放送に勝訴しました。その結果、ニッポン放送の新株予約権発行は当面差し止められることとなりました。ところで、今回の判決に対してはいろいろな意見が飛び交っていますが、大量の新株予約権の発行が認められなかったこと自体は仕方ないとしても、あの判決文の内容には私個人としては若干の不満を感じます。

確かに、裁判所の言うようにニッポン放送のなした行為は表面的には合理性に乏しい(特に増資の必要性の根拠や企業価値が守られる根拠が薄い)のですが、だからといって一方的に「著しく不当である」などと判示したのは今回に限って言えば的が外れているように感じます。

否、的はずれというよりも「優等生的な判決」と言うべきかもしれません。なぜなら、そういう風に単純に現行法を適用したような判決さえ書いておけば、少なくとも裁判官としてのリスクは消えるからです。

しかし実際は、今回の争点はそういう単純なものではなかったのです。ライブドアが行なった時間外取引という行為をめぐって現行法上の「不備」があったからこそ国会で緊急に法改正をしなければならなくなったのであり、ニッポン放送としては法制度の「不備」から身を守るために緊急避難的な行動(新株予約権発行)を余儀なくされたという事情があったわけです。
つまり、ニッポン放送の行為は現行法の不備に対処するために不可避的に生じた防衛行為だったわけですから、裁判所はそういう現行法上の明らかな「不備」については相当程度に判決内容に反映させてしかるべきなのです。それが公平な判断というものでしょう(例えば新株予約権の全てについて差し止めるのではなく、発行株数を合理的な範囲に制限するような判決もあり得たと思うし、更にもっと現実的な判決も考えられたと思います)。


ここでふと思い出すのは、むかし栗栖弘臣さんという自衛隊の統幕議長が「法令上は正当とは言えなくても、敵が攻めてきたら身を守るために超法規的に防衛せざるを得ない」と発言したことです。今回のニッポン放送の新株予約権発行は、栗栖発言の「超法規的な防衛」という概念に近いのではないかと私は考えます。

テレ朝の「サンデープロジェクト」という番組では永沢という弁護士とどっかの大学助教授が出て今回の判決を高く評価し、田原という司会者がニッポン放送側の弁護士(久保利弁護士)をまるで能無し弁護士であるかのように酷評していましたが、アンフェアな朝日体質がモロに出ていたと思います。朝日は誤報記事を書いて四方八方から批判されたので、負けた奴を叩いて気を晴らそうということかもしれません。

しかし、もちろん世の中の良識ある人々は永沢弁護士のような考えの方ばかりではありません。例えばエコノミストの紺谷典子氏(日本証券経済研究所主任研究員)は、今回の判決について「金融庁や証券界はフジテレビのやり方(企業防衛)を認め、ライブドアのやり方を認めない法改正をしていこうという流れになっているのに、その流れの逆をいくような判断だ」と述べておられますが、こういう考え方こそ現実社会の流れに即した妥当な見識ではないだろうか、と私には思われます。



  麻生大臣の発言、おまけ 2005/03/11(Fri.) 12:45 

麻生大臣のことを書いたので、ついでに少し書きます。

先日テレビを見ていると、ライブドアの堀江社長が行なった株式の時間外取引について麻生総務大臣が「あれは違法じゃない。きわめて合法」と答えておられました。このご発言はたとえ個人的な意見であるにしても、現職の総務大臣としてはどうかなあ、と思いました。

なぜかというと、ライブドアの時間外取引には様々な法解釈上の問題があり、裁判の相手方であるニッポン放送もこれについて「きわめて違法性が高い」ということで争っているものです。ですから、今は総務大臣が「違法か合法か」という判断を表明するのではなく、あくまでも司法の判断に任せるという姿勢を示すべきなのでしょう。

それに、ライブドアのやった時間外取引に問題があるからこそ政府は緊急に証券取引法を改正して時間外取引の規制を強化するわけですから、その問題の行動について現職の総務大臣が「きわめて合法」などと断定的に言うのは考えものじゃないだろうか。

私は麻生総務大臣の政治手腕は高く評価できる面があると思うのですが、オフレコ的なご発言には率直に言って問題もあるような気がします。



  NHK問題と麻生総務大臣の発言 2005/03/10(Thu.) 12:45 

昨日、NHKの元チーフプロデューサー・磯野克巳容疑者に対する5回目の逮捕ということで、これで詐欺でだまし取った金額が1億6000万円ぐらいになるとのこと。全く呆れてしまいます。

この人があと何回ぐらい逮捕されるのか知りませんが、こんな風に少しづつ自供するのではなく、最初の逮捕で全部しゃべってほしいなあという気がします。しかも、だまし取ったお金の行き先が不倫相手の愛人に宛てられていたということですから、先ごろ朝日新聞の誤報の発端となったヘンなNHKプロデューサーの件と合わせて考えると、NHKのプロデューサーには倫理観というものが全くないのかと疑ってしまいます。

また、NHKも変ですが、この事件を受けて答弁した麻生総務大臣の発言も変だと思いました。NHK受信料の件で、麻生大臣は国民の「善意だけでは成り立たない」という趣旨の発言をされ、国民に対する罰則を設けることを検討するとおっしゃるのです。

これはしかし、全くの本末転倒ではないかと思います。麻生大臣が言うようにNHK受信料は国民の「善意」によって成り立っているわけですが、その国民の善意を踏みにじって来たのはNHKのほうです。今回の事件は磯野容疑者一人の問題ではなくNHKの組織的な問題であることは明らかでしょう。いわばNHKが組織ぐるみで国民の善意を裏切り、騙し続けてきたと言わねばなりません。
もしも国民の善意に問題があって今回の事件が発生したのならば、麻生大臣の言うように国民を罰する規定を検討するのも仕方ないでしょう。しかし、事実は全く逆なのです。むしろ、NHKおよびそれを監督する国側の責任内容を明らかにして国民の納得のゆく改善策を示すことが先決であることは明らかです。


国民が正当な理由があって怒っている時に、逆にその国民を罰する法律を作ろうというような麻生総務大臣の発言は、正気の沙汰ではないように私には思えてしまいます。



  堤帝国の崩壊と丸井の3代目社長 2005/03/05(Sat.) 22:59 

リゾートやホテル事業などで一大帝国を築き上げた堤義明元会長が今月3日、逮捕されました。これは、いろいろな意味で衝撃的なことです。福田派―安倍派―三塚派―森派―小泉首相に至る流れ、すなわち「清和会」の事務所自体が赤坂プリンスホテル内にあることからしても、堤さんと政治家とのつながりがいかに濃かったかということが知られますし、実際に堤さんには政界・財界を上手に操っていた時期もあったのでしょう。

このたび堤さんが逮捕された容疑内容について細かく問題にすることに、私はあまり大きな意義を感じません。というよりも、問題の本質はもっともっと大局的な見地に立たないと見えてこないように思うのです。

堤義明さんは2代目社長でした。慶応ボーイのエリートで、親から莫大な資産を受け継ぎ、ワンマン社長という立場で出発したことはよく知られるところです。まさに「プリンスホテル」の名前にふさわしくプリンスの人生でした。しかし、今回の逮捕により堤家の流れは2代で崩壊したといえます。

非常に興味深いことは、堤さんが逮捕された日と同じ3日、丸井の青井忠雄社長が長男の浩氏を3代目社長にすることを発表したことです。西武は2代目で崩壊の危機に立ち、丸井は同じ日に3代目の就任発表があった。。。偶然にしては、あまりにも対照的な出来事であり、深く考えさせられるものがあります。堤義明さんは70歳、青井忠雄さんは72歳で同世代ですが、経営者としてはお互いに全く異質なものでした。

丸井の2代目社長・青井忠雄さんの場合、2代目といっても初代社長であった父親は長男忠雄さんを「中野忠雄」という別名で一社員として入社させ、周りから「社長の息子」という特別な扱いを受けないようにして商いの道で徹底的に苦労させました。そして、周りの誰もが認める実績を示した上で2代目社長になったのが忠雄さんでした。


青井忠雄さんの功績といえば、すぐに思い浮かぶのは「月賦の丸井」という暗かったイメージから一転して「クレジット」という言葉を普及させ、「月賦」で支払うのは現金払いよりも逆に信用(クレジット)があるのだという大きな発想の転換を国民に定着させたことでしょう。そして、「クレジットの丸井」は飛躍的に発展しました。それはまさに売り手と買い手の気持ちが働く現場からの発想だったと言えるでしょう。

今回の堤氏逮捕は何か一つの大きな時代の区切りのように思えて仕方ありません。21世紀のビジネスのあり方を問われる時だと言えるのでしょう。丸井の3代目社長となる青井浩氏も堤氏と同じく慶応ボーイのエリートですが、父親忠雄さんのように現場から叩き上げた商いの精神を受け継ぎ、売り手と買い手の庶民感覚から決して離れないような事業を展開してくれるよう、私は期待しています。



  「2ちゃんねる」の逆転敗訴 2005/03/04(Fri.) 16:59 

小学館の出版物に載っている対談を掲示板「2ちゃんねる」に無断転載されたということで、小学館と漫画家の北川みゆきさんが「2ちゃんねる」の管理者を訴えていました(転載の差し止めと著作権侵害等による300万円の損害賠償請求)。

1審判決(東京地裁)は原告の敗訴でした。理由は「著作権を侵害したのは書き込みをした本人であって管理者ではない」ということです。
ところが、3月3日の控訴審(東京高裁、塚原朋一裁判長)では、「管理者には、著作権侵害となる書き込みがあれば、速やかに是正する義務がある」と判示して、「2ちゃんねる」管理者に対して転載の差し止めと120万円の支払いを命じる決定がなされました。

確かに、インターネット上で誰もが見ることのできる掲示板などを運営している人には当然そういう管理責任が求められなきゃいけないでしょうから、この高裁判決は妥当なものだと思います。

しかし、よく掲示板を作ったまま、ほったらかしにして野放し状態になっているケースも見かけますが、今回の判決を考えると、それって本当に恐ろしいことだと思います。掲示板を立ち上げた人は、「カキコは自由です。トラブルはお互いで解決して下さい。わしゃ知らんよ」とは言えない、ということを意味しているわけです。



  ライブドアとニッポン放送の攻防 2005/03/03(Thu.) 20:36 

いやはや、驚きました。株式を上場した企業というものは、こういうことが起こり得るのですね。
一夜にしてライブドアがニッポン放送の大株主になり、「今日から僕があなたの主人です。さあ仲良くやりましょう」という感じで、突如として主人が変わる。。。長い歴史を持つニッポン放送の役員・社員たちはさぞかしビックリ仰天したことでしょう。

ジャーナリストの田原総一朗さんは、今回の件を新人類(堀江氏)対旧人類(フジサンケイグループ)の闘いだと言っておられましたが、確かにそういう面はあるかもしれません。頭突きや空手チョップの原始的な動きしか練習していなかった旧人類が、ささ〜っと軽く関節技を決める新人類の素早い動きに対応しきれないというイメージでしょうか。

しかし、ライブドアの堀江さんはニッポン放送に対して「仲良く」とか「友好的にやりましょう」と言われるのだけれど、事前の友好的な話し合いもないのに、お金持ちであるという以外によく分からない相手に対して急に「ご主人様!」と言えるわけがありません。そんなことは常識で考えれば分かることでしょう。


堀江さんが使った“手品”は「時間外取引」というものでしたが、時間外取引そのものは別に違法なことではないにしても、特定企業の株を大量に買う場合には株取引の安定性や不透性が崩れる危険があることは確かでしょう。
ニッポン放送はこれが証券取引法違反の疑いがあるとして(実質的には3分の1以上の株購入が禁じられている市場外取引ではないかということで)、証券取引等監視委員会と東京証券取引所に調査を申し入れたとのことですが、まあそれはそれとして。。。

それにしても、この堀江式の奇襲攻撃に対してニッポン放送が行なった防衛策がこれまた驚きの戦術でした。ライブドアが33%とか50%という大量の株を買い占めるというのなら、ニッポン放送の会社のルール(定款)に書いてある株式発行の上限(8000万株)の内、まだ発行していない分の全部(4720万株)についてフジテレビ宛に予約権を発行する、というものでした。

堀江さんがやった奇襲作戦も奇策でしたが、ニッポン放送がやった新株予約権の発行というのも、誰が見ても「後出しジャンケン」に見えて実にインチキ臭い(笑)。
例えば、お寿司の早食い大会でライブドアが3分の1以上食べた所で「実はもう一皿あるんですよ」というルールに急に変えてしまうようなものです。しかも、増えた皿の分はフジテレビだけが食べる権利(新株予約権)を持っている(笑)。そりゃあ、堀江さんが裁判に訴えて発行を差し止める仮処分を申請するのも無理はないでしょう。

で、私の個人的な感想ですが。。。総じて、この両者の攻防をそれぞれ検討するに、どちらかと言えばニッポン放送を含むフジサンケイグループのほうに軍配を上げたくなります。
なぜかと言いますと、堀江さんはあちこちでいろいろなコメントをされているので正確な所は分かりにくいのですが、私が最も注目したのは「法律の不備を突いた」という堀江さんの表現で、私はこの辺にライブドアの違法性を感じたのです。この堀江さんの発言は一体何を意味するでしょうか。

そもそも日本の国は資本主義ですから、株の取引が活発に行なわれ、しかも安定していることが非常に重要であることは言うまでもありません。
ところが、堀江さんのような奇襲攻撃をして会社を買収する行為があちこちで勃発したら、株取引の安定性が崩れてしまうことは誰にも分かることです。だからこそ、政府は緊急に証券取引法の改正をする方向になったわけです。つまり、法律に「不備」があったので改正しようというのです。

そこで、堀江さんが述べた「法律の不備を突いた」という発言について考えると、これは明らかに法律が不備であることを熟知しつつ確信犯的になされたもので、その行為によって株取引の安定性に重大な支障が生じるであろうことを最もよく予測できた人物こそ堀江さん本人であった、ということが言えると私は思うのです。

つまり、堀江さんの行為は外形上は認められるように思えるのですが、堀江さんはそれを「不備」であると知らない立場で(つまり善意で)なしたのではなく、その権利を「法律の不備を突く」という目的で行使して株取引の安定性を故意に損なったわけですから、明らかに「権利の濫用」であると思われるし、権利を行使する際には信義に則らねばならないという民法上の「信義則違反」であると言えるかもしれません。


話が少々ややこしくなりましたが、ともかく日本は法治国家であり法社会の安定基盤の上に成り立っていますので、「法の不備」を知りながらそれを逆利用することで法社会の安定性をかき乱しておいて、「悔しかったら法を改正すればいいだろう」というような態度は、未成年者ならばいざ知らず、立派な株式上場会社の社長のすることとは思えない、というのが私の堀江さんに対する現在の所感です。

もちろんニッポン放送が講じた新株予約権の大量発行という行為も決してほめたものではないと思いますが、そういうことを緊急避難的になさざるを得なくなった元の原因となる行為、すなわち堀江さんの時間外取引をめぐる行為自体に不当性があったとすれば、法律的判断としてはもはやニッポン放送の行為の正否を判断するまでもなく、ライブドアの主張はしりぞけられるべきである、というのが現時点における私の考えです。



  ゲーム感覚の延長としての殺人 2005/02/24(Thu.) 18:59 

今月14日、大阪・寝屋川の市立中央小学校で、卒業生の17歳の少年が3名の教諭らを殺傷するという事件が起きました。いじめに対して対応しなかった教師への恨みがあったとも言われていますが、関係者らによるとそういう事実は確認できないと言われています。一体、どうしてこういう低年齢の凶悪犯罪が起きるのでしょうか。

この事件で、二つほど気になることがあります。一つは、犯人の少年が市販されているゲームのほとんどを持っていて、しかも学校で居眠りするほどにゲームに熱中していた、ということです。
もう一つは、犯行に及ぶ直前に少年は立て続けにタバコを3本吸っていたという証言があること、しかも犯行直後にもタバコを吸っている所を逮捕された、という事実です。

これは、少年がテレビゲームに中毒的な依存をしていたと同時にタバコにも中毒的に依存していたことを示しているのではないでしょうか。
タバコの中毒が脳の神経に悪影響を与えることは言うまでもないですが、「ゲーム脳の恐怖」の著者・森昭雄医師によると、大人になる前からテレビゲームに熱中しすぎると、脳が正常に発達せず、少年時から痴呆化が進む現象が起こるということです。

少年は犯行後、「どうして行なったのかわからない」と言ったということですが、もしも本気でそう言ったのだとしたら、場合によっては「ゲーム脳」の理論の通り、痴呆症的な雰囲気の発言であると解釈することもできるかもしれません。

そして、動機について曖昧な記憶しかないにもかかわらず、教諭らを殺傷した方法については「1人1人、狙いをつけて、思い切り刺した」と述べ、正確に殺傷の様子を話しているのです。これこそまさに、ゲーム感覚の殺人であったことを物語っていると言えるのではないでしょうか。

通常の殺人事件の場合、犯行の動機はハッキリしているけれども、犯行時には無我夢中でどうやって刺したか覚えていないという現象がよく見られますが、この少年の場合は全く逆で、犯行の動機が曖昧であるにもかかわらず殺傷した方法についてはまるで刺激的なゲームを楽しんだかのように明確に覚えているのです。


少年についての情報は必ずしも多くはないのですが、少年は家族の話になると泣き出すこともあると言われています。それは、彼には親しい人間関係が存在しないため、彼にとってバーチャルでない唯一のリアルな心情的関係を結ぶことのできる存在が家族だけだったからに他ならないと思われます。「現実」というものに接する通路があまりにも狭かったと言うべきなのでしょうか。

今回の事件で注目すべきは、彼が決して成績の悪い学生ではなかったということです。彼は中学2年の2学期から不登校となり、独自に勉強して大検に合格し、大学の受験資格を得たと言われています。犯行はまさに受験シーズンの最中に起きましたので、大学という新しい現実の環境に進む上で長期間の不登校期間というマイナスの過去を何らかの形で整理しない限り前に進むことのできない精神的な壁があったのかもしれません。そして、今までのゲーム感覚の生活と、社会的な責任を負う現実の大学生活との間に存在する目に見えないギャップを埋めてくれる存在(=真の教師)が彼において存在していなかったことに対するジレンマが、突如として教師を襲うという形で噴出したと考えることもできるのかもしれません。

ゲームの世界はバーチャルですから刺激的であっても痛みがありません。しかも、何度でも繰り返すことができるという独特の軽さがあります。テレビゲームが低年齢層に浸透した今日、今後も同種の犯罪が起こる可能性はますます高まっていると思われます。

今回の事件で死亡した教諭は親からも生徒からも慕われていた有能な方であったということで、その損失はいかばかりかと思いますが、その犠牲を無駄にしないためにも、この少年が「現実」を取り戻すための最善の道をさぐって、今後も起こりうべき犯罪への教訓を残さねばならないと思います。



  真のキリスト精神による平和 2005/02/17(Thu.) 23:40 

旧約聖書のゼカリヤ書には「主は言われる、全地の人の3分の2は断たれて死に、3分の1は生き残る」(13章8節)と書かれていますが、共産主義という悪魔の暴力的無神論思想によって地上の3分の2までが共産化され、おびただしい犠牲者を出すという歴史を人類は経験しました。

しかし近年、神の救いの摂理によって共産主義はどんどん解放されました。そして、最後の最後まで共産主義を守り抜こうとしているのが、ご存じのように北朝鮮という国です。亡命者の証言を聞くまでもなく、国民は共産思想による洗脳の犠牲となっています。

なぜ北朝鮮が悪魔の思想である共産主義によって、あれほど縛られてしまうのか。なぜ悪魔が北朝鮮にあれほどまでに執着するのか。それは、ある意味では北朝鮮という国は人類の歴史において非常に重要な意味を持つ国であるからかもしれません。

統一教会の創始者である文鮮明師は北朝鮮に生まれましたが、徹底して共産主義の間違いを指摘し、「勝共思想」を説いたことは周知の事実です。特に北朝鮮の共産主義思想(主体思想)については徹底的にその誤りを指摘しました。

そのようにして文鮮明師と北朝鮮の金日成主席は思想的に全く対立していたのですが、文師は単に共産主義を批判していたのではありません。ついに文師の説く思想の根底にある愛の精神が金日成主席の心に届き、主席の心は大きく動かされました。そして1991年12月6日、文鮮明師と金日成主席はお互いにうち解けて意気投合したばかりか、「兄弟関係」を結ぶに至ったという歴史がありました。

それは、まるで聖書(創世記)に書かれているエサウとヤコブの物語に似た出来事でした。エサウとヤコブは双子の兄弟でしたが、長い期間エサウはヤコブと対立していました。しかしヤコブが真実エサウを愛していることを知った時、彼らは兄弟の関係を取り戻し、一つになって抱き合ったのでした。

たとえ無神論的共産主義の国家主席といえども、真実の平和精神の前には心を開くのです。そして、その平和精神を世界レベルに拡大しなければならないのが今の時代だと言えるでしょう。世界はテロの危機にさらされていますが、その問題を根本的に解決するのは政治や軍事によるものではなく、心と心の対話であり宗教思想の和合統一しかないのではないでしょうか。

さて、世界の中でキリストの精神を説き、平和の思想を普及しているのは何といってもローマ法王でしょう。尊い実践の姿だと思います。先頃、インフルエンザで入院されたという報道がありましたが、数日で回復されたことを心から喜びたいと思います。

悪魔の思想は国家を支配しましたが、全世界を支配するには至っていません。そして、世界には真実のキリスト精神が現れねばならないのでしょう。それは従来のキリスト教精神にとどまるものではなく、再臨のキリストが説く新しい真理(統一原理)によるものでなければならない、と私は考えます。

これ以上の話は統一原理自体にゆずることにしますが、ローマ法王は文鮮明師の誕生の約3か月後(1920年5月18日)に誕生しておられ、お二人とも今年は85歳です。ローマ法王が共産政権のポーランドから選ばれた法王であるという事実も歴史的に重要ですが、文師とローマ法王がお互いに独自の立場からキリストの平和思想を世界に示す兄弟のような関係にあることも重要な事実だと思われます。ローマ法王がご健康に恵まれるよう祈ると共に、これからの法王の動きに注目したいと思います。

ところで、北朝鮮と日本との対話については、いろいろな問題はあってもここ数年でずいぶん深められたことは確かです。そして、北朝鮮との対話を果敢に進めた小泉首相(1942年1月8日誕生)は金正日総書記と約40日ほどしか違わない同年齢(63歳)ですが、そういう事実にさえ何か深い意味を感じ取るべき時が今の時代なのかもしれません。神のなさる摂理には常に霊妙不可思議な背景があるのでしょう。



  「ゆとり教育」という名の教育放棄 2005/02/13(Sun.) 12:04 

中山文部科学大臣は、いわゆる「ゆとり教育」が学生の学力を低下させてしまったという見解を述べています(読売新聞のインタビュー等)。「ゆとり教育」というネーミングは現在の閉塞した日本の状況で、何となく伸び伸びした明るい印象があるだけに、その実態に多くの人が欺かれてしまったのかもしれません。

「ゆとり教育」というのは、要するに授業時間を減らしたり教科書の分量を減らして「あまり多くのことを教えない」という教育方針のことでした。中山大臣は、「ゆとり教育が“勉強しなくてもよい”という誤ったメッセージを児童・生徒や教師に発してきたのではないか」と指摘したということですが、これは最初から当然予想されたことでしょう。遊びたい盛りの子供たちに授業以外の時間を与えれば一体誰が勉強するでしょうか。遊ぶに決まっています。学校を一歩出たら元気に遊ぶ、というのも青少年の健全な姿ですから、それ自体をとがめることは出来ません。

では、どうしてそういう「ゆとり教育」が始められたのかという原点に戻ると、結局は「教師が休みたいから」「教師が生徒と会う時間を減らしたいから」ということに帰結するような気がしてなりません。教師の側に教育に対する何のビジョンもないのです。教師はもはや教育者ではなく「労働者」という概念のほうが近くなっているのでしょう。

「ゆとり教育」は、これまで受験中心だった「つめこみ教育」に対する反省から出てきたものかもしれませんが、いわゆる「つめこみ教育」は教科書の分量が多すぎることが問題の本質だったのではなく、「自分の頭で考える」という創造性・自主性の喪失こそが問題だったのです。


もしも、教師たちが「つめこみ教育」の弊害の本質を悟り、もっと創造性や学習に対する意欲を持たせるような教育改革を打ち出していれば、むしろ学生は「もっともっと先のことを学びたい」という姿勢になる可能性もあるのであって、授業時間や教育内容を減らすどころか、学習意欲を示す生徒に対しては別途に課外授業を設ける必要すら出てくることもあり得るのです。

「ゆとり教育」を単に教育内容を減らすという、目に見える分量の概念でしか捉えられない教師たちの発想は「唯物的な考え」であるとも言えるでしょう。真の教育改革は、唯物教育を中心に展開してきた日教組を主流とする教師自身の教育理想から変えなければならないのだと思います。

最近、テレビで「小学生から○○○会、東大・京大・早稲田・慶応・・・」というコマーシャルがありますが、私は感心しません。少子化が進んだために大学受験生が減る傾向があり、創立30年の両国予備校などは今月8日に閉鎖せざるを得なくなりました。そういう関係もあって受験産業がどんどん低年齢を狙ってきているのかもしれません。しかしながら、自由闊達な発想を芽生えさせる小学生の時期から学歴偏重の価値観を押しつけることは問題があるのではないでしょうか。

学校の教師も受験産業にたずさわる方々も含めて、日本の将来を担う青少年の教育のあり方について、受験主義・商業主義の観点を超えて真剣に考えるべき時がきているように思います。




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