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20121

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江本武忠
(えもと・むちゅう)

(2005/03/15(Tue.) 00:30 〜 2005/01/27(Thu.) 12:08)

  フジ経営者は「クズだ」という発言に見られる本音 2005/03/15(Tue.) 00:30 

最近、ライブドアの堀江社長や相棒である村上ファンドの代表者がコメントをする場面をテレビで見ていて少々思うことがあります。

堀江社長はニッポン放送に対し、時間外取引という制度に存在した法律上の「不備」を悪用した奇襲作戦によって「敵対的買収」をしたわけですが、実際には「敵対的」に乗っ取りをしようとしつつ顔ではニコニコして「仲良くやりましょう」というのでは、やっぱり誰がみても心と顔が全く違うことがミエミエではないかという気持ちが強くなってまいります。

「やってはいけないのならば、法律にきちんと書いておいてほしい」などと言った堀江社長の理屈を聞くと、ストーブを背負ってやけどをした人が「これを背負うなと商品に書いていないからいけないのだ」と言って損害賠償請求の裁判を起こして勝訴した変なアメリカ人の裁判を思い起こします。しかし、何でもアメリカの真似をすればいいというものでもないでしょう。

堀江社長と組んでいるM&Aコンサルティング企業(通称村上ファンド)の村上世彰(よしあき)代表は、12日に行なわれた都内のセミナーで「フジテレビの経営者はクズだ」という趣旨の侮辱的な発言をしましたが、私は「やっと彼らの本音が出たなあ」と思いました。

つまり、彼らは自分たち以外の経営者は時代遅れであり、無価値の「クズ」にしか見えないのです。彼らは東大を出て優秀なのかもしれないし、金儲けも上手なのかもしれませんが、それにしてもそこまで人を見下す彼らの精神はむしろ病んでいると言わねばなりません。


堀江さんは「法律の不備を突いた」という発言をされ、「将棋で言えば既に詰んでいる」と挑発し、「フジテレビを支配する」、「テレビを殺す」などという暴言とも言うべき言葉を浴びせてきましたが、とても将来の日本の文化の担い手とは思えません。企業売買について智恵がある、というだけの話です。

堀江社長が野球の球団を買い取ろうとした際にも、「ライブドアはアダルトを販売している」という事実を暴露され、何の釈明もできませんでした。この人が本当に健全な文化の構築を考えている人なのかどうか、こういう人たちに本当に公共の電波を任せてよいのだろうか、法律問題もさることながら、そういうことをよく見極める必要があると思います。放送会社というものが一般企業と大きく性質が異なることは明らかだからです。

彼らはアメリカ流の企業売買を真似していると考えているのかもしれません。しかし、アメリカの事情に詳しいデーブ・スペクター氏は日本テレビの番組「ザ・ワイド」で、村上氏の「クズ発言」を強く非難し、「ああいうことは絶対に言うべきでないし、彼らがやっていることは本当の企業買収ではない」ということを説明しているのを見て、私は日本人として恥ずかしく感じました。

日本人の持つ道徳性の高さを土台にして、お互いに信頼し合いながら「もの創り」をしていく日本的経営の良さというものを、わざわざアメリカ人から教えられなきゃいけない時代になったのかと思うと、何だか寂しくなってしまいます。



  ライブドア判決 2005/03/14(Mon.) 00:19 

11日、ライブドアがニッポン放送に勝訴しました。その結果、ニッポン放送の新株予約権発行は当面差し止められることとなりました。ところで、今回の判決に対してはいろいろな意見が飛び交っていますが、大量の新株予約権の発行が認められなかったこと自体は仕方ないとしても、あの判決文の内容には私個人としては若干の不満を感じます。

確かに、裁判所の言うようにニッポン放送のなした行為は表面的には合理性に乏しい(特に増資の必要性の根拠や企業価値が守られる根拠が薄い)のですが、だからといって一方的に「著しく不当である」などと判示したのは今回に限って言えば的が外れているように感じます。

否、的はずれというよりも「優等生的な判決」と言うべきかもしれません。なぜなら、そういう風に単純に現行法を適用したような判決さえ書いておけば、少なくとも裁判官としてのリスクは消えるからです。

しかし実際は、今回の争点はそういう単純なものではなかったのです。ライブドアが行なった時間外取引という行為をめぐって現行法上の「不備」があったからこそ国会で緊急に法改正をしなければならなくなったのであり、ニッポン放送としては法制度の「不備」から身を守るために緊急避難的な行動(新株予約権発行)を余儀なくされたという事情があったわけです。
つまり、ニッポン放送の行為は現行法の不備に対処するために不可避的に生じた防衛行為だったわけですから、裁判所はそういう現行法上の明らかな「不備」については相当程度に判決内容に反映させてしかるべきなのです。それが公平な判断というものでしょう(例えば新株予約権の全てについて差し止めるのではなく、発行株数を合理的な範囲に制限するような判決もあり得たと思うし、更にもっと現実的な判決も考えられたと思います)。


ここでふと思い出すのは、むかし栗栖弘臣さんという自衛隊の統幕議長が「法令上は正当とは言えなくても、敵が攻めてきたら身を守るために超法規的に防衛せざるを得ない」と発言したことです。今回のニッポン放送の新株予約権発行は、栗栖発言の「超法規的な防衛」という概念に近いのではないかと私は考えます。

テレ朝の「サンデープロジェクト」という番組では永沢という弁護士とどっかの大学助教授が出て今回の判決を高く評価し、田原という司会者がニッポン放送側の弁護士(久保利弁護士)をまるで能無し弁護士であるかのように酷評していましたが、アンフェアな朝日体質がモロに出ていたと思います。朝日は誤報記事を書いて四方八方から批判されたので、負けた奴を叩いて気を晴らそうということかもしれません。

しかし、もちろん世の中の良識ある人々は永沢弁護士のような考えの方ばかりではありません。例えばエコノミストの紺谷典子氏(日本証券経済研究所主任研究員)は、今回の判決について「金融庁や証券界はフジテレビのやり方(企業防衛)を認め、ライブドアのやり方を認めない法改正をしていこうという流れになっているのに、その流れの逆をいくような判断だ」と述べておられますが、こういう考え方こそ現実社会の流れに即した妥当な見識ではないだろうか、と私には思われます。



  麻生大臣の発言、おまけ 2005/03/11(Fri.) 12:45 

麻生大臣のことを書いたので、ついでに少し書きます。

先日テレビを見ていると、ライブドアの堀江社長が行なった株式の時間外取引について麻生総務大臣が「あれは違法じゃない。きわめて合法」と答えておられました。このご発言はたとえ個人的な意見であるにしても、現職の総務大臣としてはどうかなあ、と思いました。

なぜかというと、ライブドアの時間外取引には様々な法解釈上の問題があり、裁判の相手方であるニッポン放送もこれについて「きわめて違法性が高い」ということで争っているものです。ですから、今は総務大臣が「違法か合法か」という判断を表明するのではなく、あくまでも司法の判断に任せるという姿勢を示すべきなのでしょう。

それに、ライブドアのやった時間外取引に問題があるからこそ政府は緊急に証券取引法を改正して時間外取引の規制を強化するわけですから、その問題の行動について現職の総務大臣が「きわめて合法」などと断定的に言うのは考えものじゃないだろうか。

私は麻生総務大臣の政治手腕は高く評価できる面があると思うのですが、オフレコ的なご発言には率直に言って問題もあるような気がします。



  NHK問題と麻生総務大臣の発言 2005/03/10(Thu.) 12:45 

昨日、NHKの元チーフプロデューサー・磯野克巳容疑者に対する5回目の逮捕ということで、これで詐欺でだまし取った金額が1億6000万円ぐらいになるとのこと。全く呆れてしまいます。

この人があと何回ぐらい逮捕されるのか知りませんが、こんな風に少しづつ自供するのではなく、最初の逮捕で全部しゃべってほしいなあという気がします。しかも、だまし取ったお金の行き先が不倫相手の愛人に宛てられていたということですから、先ごろ朝日新聞の誤報の発端となったヘンなNHKプロデューサーの件と合わせて考えると、NHKのプロデューサーには倫理観というものが全くないのかと疑ってしまいます。

また、NHKも変ですが、この事件を受けて答弁した麻生総務大臣の発言も変だと思いました。NHK受信料の件で、麻生大臣は国民の「善意だけでは成り立たない」という趣旨の発言をされ、国民に対する罰則を設けることを検討するとおっしゃるのです。

これはしかし、全くの本末転倒ではないかと思います。麻生大臣が言うようにNHK受信料は国民の「善意」によって成り立っているわけですが、その国民の善意を踏みにじって来たのはNHKのほうです。今回の事件は磯野容疑者一人の問題ではなくNHKの組織的な問題であることは明らかでしょう。いわばNHKが組織ぐるみで国民の善意を裏切り、騙し続けてきたと言わねばなりません。
もしも国民の善意に問題があって今回の事件が発生したのならば、麻生大臣の言うように国民を罰する規定を検討するのも仕方ないでしょう。しかし、事実は全く逆なのです。むしろ、NHKおよびそれを監督する国側の責任内容を明らかにして国民の納得のゆく改善策を示すことが先決であることは明らかです。


国民が正当な理由があって怒っている時に、逆にその国民を罰する法律を作ろうというような麻生総務大臣の発言は、正気の沙汰ではないように私には思えてしまいます。



  堤帝国の崩壊と丸井の3代目社長 2005/03/05(Sat.) 22:59 

リゾートやホテル事業などで一大帝国を築き上げた堤義明元会長が今月3日、逮捕されました。これは、いろいろな意味で衝撃的なことです。福田派―安倍派―三塚派―森派―小泉首相に至る流れ、すなわち「清和会」の事務所自体が赤坂プリンスホテル内にあることからしても、堤さんと政治家とのつながりがいかに濃かったかということが知られますし、実際に堤さんには政界・財界を上手に操っていた時期もあったのでしょう。

このたび堤さんが逮捕された容疑内容について細かく問題にすることに、私はあまり大きな意義を感じません。というよりも、問題の本質はもっともっと大局的な見地に立たないと見えてこないように思うのです。

堤義明さんは2代目社長でした。慶応ボーイのエリートで、親から莫大な資産を受け継ぎ、ワンマン社長という立場で出発したことはよく知られるところです。まさに「プリンスホテル」の名前にふさわしくプリンスの人生でした。しかし、今回の逮捕により堤家の流れは2代で崩壊したといえます。

非常に興味深いことは、堤さんが逮捕された日と同じ3日、丸井の青井忠雄社長が長男の浩氏を3代目社長にすることを発表したことです。西武は2代目で崩壊の危機に立ち、丸井は同じ日に3代目の就任発表があった。。。偶然にしては、あまりにも対照的な出来事であり、深く考えさせられるものがあります。堤義明さんは70歳、青井忠雄さんは72歳で同世代ですが、経営者としてはお互いに全く異質なものでした。

丸井の2代目社長・青井忠雄さんの場合、2代目といっても初代社長であった父親は長男忠雄さんを「中野忠雄」という別名で一社員として入社させ、周りから「社長の息子」という特別な扱いを受けないようにして商いの道で徹底的に苦労させました。そして、周りの誰もが認める実績を示した上で2代目社長になったのが忠雄さんでした。


青井忠雄さんの功績といえば、すぐに思い浮かぶのは「月賦の丸井」という暗かったイメージから一転して「クレジット」という言葉を普及させ、「月賦」で支払うのは現金払いよりも逆に信用(クレジット)があるのだという大きな発想の転換を国民に定着させたことでしょう。そして、「クレジットの丸井」は飛躍的に発展しました。それはまさに売り手と買い手の気持ちが働く現場からの発想だったと言えるでしょう。

今回の堤氏逮捕は何か一つの大きな時代の区切りのように思えて仕方ありません。21世紀のビジネスのあり方を問われる時だと言えるのでしょう。丸井の3代目社長となる青井浩氏も堤氏と同じく慶応ボーイのエリートですが、父親忠雄さんのように現場から叩き上げた商いの精神を受け継ぎ、売り手と買い手の庶民感覚から決して離れないような事業を展開してくれるよう、私は期待しています。



  「2ちゃんねる」の逆転敗訴 2005/03/04(Fri.) 16:59 

小学館の出版物に載っている対談を掲示板「2ちゃんねる」に無断転載されたということで、小学館と漫画家の北川みゆきさんが「2ちゃんねる」の管理者を訴えていました(転載の差し止めと著作権侵害等による300万円の損害賠償請求)。

1審判決(東京地裁)は原告の敗訴でした。理由は「著作権を侵害したのは書き込みをした本人であって管理者ではない」ということです。
ところが、3月3日の控訴審(東京高裁、塚原朋一裁判長)では、「管理者には、著作権侵害となる書き込みがあれば、速やかに是正する義務がある」と判示して、「2ちゃんねる」管理者に対して転載の差し止めと120万円の支払いを命じる決定がなされました。

確かに、インターネット上で誰もが見ることのできる掲示板などを運営している人には当然そういう管理責任が求められなきゃいけないでしょうから、この高裁判決は妥当なものだと思います。

しかし、よく掲示板を作ったまま、ほったらかしにして野放し状態になっているケースも見かけますが、今回の判決を考えると、それって本当に恐ろしいことだと思います。掲示板を立ち上げた人は、「カキコは自由です。トラブルはお互いで解決して下さい。わしゃ知らんよ」とは言えない、ということを意味しているわけです。



  ライブドアとニッポン放送の攻防 2005/03/03(Thu.) 20:36 

いやはや、驚きました。株式を上場した企業というものは、こういうことが起こり得るのですね。
一夜にしてライブドアがニッポン放送の大株主になり、「今日から僕があなたの主人です。さあ仲良くやりましょう」という感じで、突如として主人が変わる。。。長い歴史を持つニッポン放送の役員・社員たちはさぞかしビックリ仰天したことでしょう。

ジャーナリストの田原総一朗さんは、今回の件を新人類(堀江氏)対旧人類(フジサンケイグループ)の闘いだと言っておられましたが、確かにそういう面はあるかもしれません。頭突きや空手チョップの原始的な動きしか練習していなかった旧人類が、ささ〜っと軽く関節技を決める新人類の素早い動きに対応しきれないというイメージでしょうか。

しかし、ライブドアの堀江さんはニッポン放送に対して「仲良く」とか「友好的にやりましょう」と言われるのだけれど、事前の友好的な話し合いもないのに、お金持ちであるという以外によく分からない相手に対して急に「ご主人様!」と言えるわけがありません。そんなことは常識で考えれば分かることでしょう。


堀江さんが使った“手品”は「時間外取引」というものでしたが、時間外取引そのものは別に違法なことではないにしても、特定企業の株を大量に買う場合には株取引の安定性や不透性が崩れる危険があることは確かでしょう。
ニッポン放送はこれが証券取引法違反の疑いがあるとして(実質的には3分の1以上の株購入が禁じられている市場外取引ではないかということで)、証券取引等監視委員会と東京証券取引所に調査を申し入れたとのことですが、まあそれはそれとして。。。

それにしても、この堀江式の奇襲攻撃に対してニッポン放送が行なった防衛策がこれまた驚きの戦術でした。ライブドアが33%とか50%という大量の株を買い占めるというのなら、ニッポン放送の会社のルール(定款)に書いてある株式発行の上限(8000万株)の内、まだ発行していない分の全部(4720万株)についてフジテレビ宛に予約権を発行する、というものでした。

堀江さんがやった奇襲作戦も奇策でしたが、ニッポン放送がやった新株予約権の発行というのも、誰が見ても「後出しジャンケン」に見えて実にインチキ臭い(笑)。
例えば、お寿司の早食い大会でライブドアが3分の1以上食べた所で「実はもう一皿あるんですよ」というルールに急に変えてしまうようなものです。しかも、増えた皿の分はフジテレビだけが食べる権利(新株予約権)を持っている(笑)。そりゃあ、堀江さんが裁判に訴えて発行を差し止める仮処分を申請するのも無理はないでしょう。

で、私の個人的な感想ですが。。。総じて、この両者の攻防をそれぞれ検討するに、どちらかと言えばニッポン放送を含むフジサンケイグループのほうに軍配を上げたくなります。
なぜかと言いますと、堀江さんはあちこちでいろいろなコメントをされているので正確な所は分かりにくいのですが、私が最も注目したのは「法律の不備を突いた」という堀江さんの表現で、私はこの辺にライブドアの違法性を感じたのです。この堀江さんの発言は一体何を意味するでしょうか。

そもそも日本の国は資本主義ですから、株の取引が活発に行なわれ、しかも安定していることが非常に重要であることは言うまでもありません。
ところが、堀江さんのような奇襲攻撃をして会社を買収する行為があちこちで勃発したら、株取引の安定性が崩れてしまうことは誰にも分かることです。だからこそ、政府は緊急に証券取引法の改正をする方向になったわけです。つまり、法律に「不備」があったので改正しようというのです。

そこで、堀江さんが述べた「法律の不備を突いた」という発言について考えると、これは明らかに法律が不備であることを熟知しつつ確信犯的になされたもので、その行為によって株取引の安定性に重大な支障が生じるであろうことを最もよく予測できた人物こそ堀江さん本人であった、ということが言えると私は思うのです。

つまり、堀江さんの行為は外形上は認められるように思えるのですが、堀江さんはそれを「不備」であると知らない立場で(つまり善意で)なしたのではなく、その権利を「法律の不備を突く」という目的で行使して株取引の安定性を故意に損なったわけですから、明らかに「権利の濫用」であると思われるし、権利を行使する際には信義に則らねばならないという民法上の「信義則違反」であると言えるかもしれません。


話が少々ややこしくなりましたが、ともかく日本は法治国家であり法社会の安定基盤の上に成り立っていますので、「法の不備」を知りながらそれを逆利用することで法社会の安定性をかき乱しておいて、「悔しかったら法を改正すればいいだろう」というような態度は、未成年者ならばいざ知らず、立派な株式上場会社の社長のすることとは思えない、というのが私の堀江さんに対する現在の所感です。

もちろんニッポン放送が講じた新株予約権の大量発行という行為も決してほめたものではないと思いますが、そういうことを緊急避難的になさざるを得なくなった元の原因となる行為、すなわち堀江さんの時間外取引をめぐる行為自体に不当性があったとすれば、法律的判断としてはもはやニッポン放送の行為の正否を判断するまでもなく、ライブドアの主張はしりぞけられるべきである、というのが現時点における私の考えです。



  ゲーム感覚の延長としての殺人 2005/02/24(Thu.) 18:59 

今月14日、大阪・寝屋川の市立中央小学校で、卒業生の17歳の少年が3名の教諭らを殺傷するという事件が起きました。いじめに対して対応しなかった教師への恨みがあったとも言われていますが、関係者らによるとそういう事実は確認できないと言われています。一体、どうしてこういう低年齢の凶悪犯罪が起きるのでしょうか。

この事件で、二つほど気になることがあります。一つは、犯人の少年が市販されているゲームのほとんどを持っていて、しかも学校で居眠りするほどにゲームに熱中していた、ということです。
もう一つは、犯行に及ぶ直前に少年は立て続けにタバコを3本吸っていたという証言があること、しかも犯行直後にもタバコを吸っている所を逮捕された、という事実です。

これは、少年がテレビゲームに中毒的な依存をしていたと同時にタバコにも中毒的に依存していたことを示しているのではないでしょうか。
タバコの中毒が脳の神経に悪影響を与えることは言うまでもないですが、「ゲーム脳の恐怖」の著者・森昭雄医師によると、大人になる前からテレビゲームに熱中しすぎると、脳が正常に発達せず、少年時から痴呆化が進む現象が起こるということです。

少年は犯行後、「どうして行なったのかわからない」と言ったということですが、もしも本気でそう言ったのだとしたら、場合によっては「ゲーム脳」の理論の通り、痴呆症的な雰囲気の発言であると解釈することもできるかもしれません。

そして、動機について曖昧な記憶しかないにもかかわらず、教諭らを殺傷した方法については「1人1人、狙いをつけて、思い切り刺した」と述べ、正確に殺傷の様子を話しているのです。これこそまさに、ゲーム感覚の殺人であったことを物語っていると言えるのではないでしょうか。

通常の殺人事件の場合、犯行の動機はハッキリしているけれども、犯行時には無我夢中でどうやって刺したか覚えていないという現象がよく見られますが、この少年の場合は全く逆で、犯行の動機が曖昧であるにもかかわらず殺傷した方法についてはまるで刺激的なゲームを楽しんだかのように明確に覚えているのです。


少年についての情報は必ずしも多くはないのですが、少年は家族の話になると泣き出すこともあると言われています。それは、彼には親しい人間関係が存在しないため、彼にとってバーチャルでない唯一のリアルな心情的関係を結ぶことのできる存在が家族だけだったからに他ならないと思われます。「現実」というものに接する通路があまりにも狭かったと言うべきなのでしょうか。

今回の事件で注目すべきは、彼が決して成績の悪い学生ではなかったということです。彼は中学2年の2学期から不登校となり、独自に勉強して大検に合格し、大学の受験資格を得たと言われています。犯行はまさに受験シーズンの最中に起きましたので、大学という新しい現実の環境に進む上で長期間の不登校期間というマイナスの過去を何らかの形で整理しない限り前に進むことのできない精神的な壁があったのかもしれません。そして、今までのゲーム感覚の生活と、社会的な責任を負う現実の大学生活との間に存在する目に見えないギャップを埋めてくれる存在(=真の教師)が彼において存在していなかったことに対するジレンマが、突如として教師を襲うという形で噴出したと考えることもできるのかもしれません。

ゲームの世界はバーチャルですから刺激的であっても痛みがありません。しかも、何度でも繰り返すことができるという独特の軽さがあります。テレビゲームが低年齢層に浸透した今日、今後も同種の犯罪が起こる可能性はますます高まっていると思われます。

今回の事件で死亡した教諭は親からも生徒からも慕われていた有能な方であったということで、その損失はいかばかりかと思いますが、その犠牲を無駄にしないためにも、この少年が「現実」を取り戻すための最善の道をさぐって、今後も起こりうべき犯罪への教訓を残さねばならないと思います。



  真のキリスト精神による平和 2005/02/17(Thu.) 23:40 

旧約聖書のゼカリヤ書には「主は言われる、全地の人の3分の2は断たれて死に、3分の1は生き残る」(13章8節)と書かれていますが、共産主義という悪魔の暴力的無神論思想によって地上の3分の2までが共産化され、おびただしい犠牲者を出すという歴史を人類は経験しました。

しかし近年、神の救いの摂理によって共産主義はどんどん解放されました。そして、最後の最後まで共産主義を守り抜こうとしているのが、ご存じのように北朝鮮という国です。亡命者の証言を聞くまでもなく、国民は共産思想による洗脳の犠牲となっています。

なぜ北朝鮮が悪魔の思想である共産主義によって、あれほど縛られてしまうのか。なぜ悪魔が北朝鮮にあれほどまでに執着するのか。それは、ある意味では北朝鮮という国は人類の歴史において非常に重要な意味を持つ国であるからかもしれません。

統一教会の創始者である文鮮明師は北朝鮮に生まれましたが、徹底して共産主義の間違いを指摘し、「勝共思想」を説いたことは周知の事実です。特に北朝鮮の共産主義思想(主体思想)については徹底的にその誤りを指摘しました。

そのようにして文鮮明師と北朝鮮の金日成主席は思想的に全く対立していたのですが、文師は単に共産主義を批判していたのではありません。ついに文師の説く思想の根底にある愛の精神が金日成主席の心に届き、主席の心は大きく動かされました。そして1991年12月6日、文鮮明師と金日成主席はお互いにうち解けて意気投合したばかりか、「兄弟関係」を結ぶに至ったという歴史がありました。

それは、まるで聖書(創世記)に書かれているエサウとヤコブの物語に似た出来事でした。エサウとヤコブは双子の兄弟でしたが、長い期間エサウはヤコブと対立していました。しかしヤコブが真実エサウを愛していることを知った時、彼らは兄弟の関係を取り戻し、一つになって抱き合ったのでした。

たとえ無神論的共産主義の国家主席といえども、真実の平和精神の前には心を開くのです。そして、その平和精神を世界レベルに拡大しなければならないのが今の時代だと言えるでしょう。世界はテロの危機にさらされていますが、その問題を根本的に解決するのは政治や軍事によるものではなく、心と心の対話であり宗教思想の和合統一しかないのではないでしょうか。

さて、世界の中でキリストの精神を説き、平和の思想を普及しているのは何といってもローマ法王でしょう。尊い実践の姿だと思います。先頃、インフルエンザで入院されたという報道がありましたが、数日で回復されたことを心から喜びたいと思います。

悪魔の思想は国家を支配しましたが、全世界を支配するには至っていません。そして、世界には真実のキリスト精神が現れねばならないのでしょう。それは従来のキリスト教精神にとどまるものではなく、再臨のキリストが説く新しい真理(統一原理)によるものでなければならない、と私は考えます。

これ以上の話は統一原理自体にゆずることにしますが、ローマ法王は文鮮明師の誕生の約3か月後(1920年5月18日)に誕生しておられ、お二人とも今年は85歳です。ローマ法王が共産政権のポーランドから選ばれた法王であるという事実も歴史的に重要ですが、文師とローマ法王がお互いに独自の立場からキリストの平和思想を世界に示す兄弟のような関係にあることも重要な事実だと思われます。ローマ法王がご健康に恵まれるよう祈ると共に、これからの法王の動きに注目したいと思います。

ところで、北朝鮮と日本との対話については、いろいろな問題はあってもここ数年でずいぶん深められたことは確かです。そして、北朝鮮との対話を果敢に進めた小泉首相(1942年1月8日誕生)は金正日総書記と約40日ほどしか違わない同年齢(63歳)ですが、そういう事実にさえ何か深い意味を感じ取るべき時が今の時代なのかもしれません。神のなさる摂理には常に霊妙不可思議な背景があるのでしょう。



  「ゆとり教育」という名の教育放棄 2005/02/13(Sun.) 12:04 

中山文部科学大臣は、いわゆる「ゆとり教育」が学生の学力を低下させてしまったという見解を述べています(読売新聞のインタビュー等)。「ゆとり教育」というネーミングは現在の閉塞した日本の状況で、何となく伸び伸びした明るい印象があるだけに、その実態に多くの人が欺かれてしまったのかもしれません。

「ゆとり教育」というのは、要するに授業時間を減らしたり教科書の分量を減らして「あまり多くのことを教えない」という教育方針のことでした。中山大臣は、「ゆとり教育が“勉強しなくてもよい”という誤ったメッセージを児童・生徒や教師に発してきたのではないか」と指摘したということですが、これは最初から当然予想されたことでしょう。遊びたい盛りの子供たちに授業以外の時間を与えれば一体誰が勉強するでしょうか。遊ぶに決まっています。学校を一歩出たら元気に遊ぶ、というのも青少年の健全な姿ですから、それ自体をとがめることは出来ません。

では、どうしてそういう「ゆとり教育」が始められたのかという原点に戻ると、結局は「教師が休みたいから」「教師が生徒と会う時間を減らしたいから」ということに帰結するような気がしてなりません。教師の側に教育に対する何のビジョンもないのです。教師はもはや教育者ではなく「労働者」という概念のほうが近くなっているのでしょう。

「ゆとり教育」は、これまで受験中心だった「つめこみ教育」に対する反省から出てきたものかもしれませんが、いわゆる「つめこみ教育」は教科書の分量が多すぎることが問題の本質だったのではなく、「自分の頭で考える」という創造性・自主性の喪失こそが問題だったのです。


もしも、教師たちが「つめこみ教育」の弊害の本質を悟り、もっと創造性や学習に対する意欲を持たせるような教育改革を打ち出していれば、むしろ学生は「もっともっと先のことを学びたい」という姿勢になる可能性もあるのであって、授業時間や教育内容を減らすどころか、学習意欲を示す生徒に対しては別途に課外授業を設ける必要すら出てくることもあり得るのです。

「ゆとり教育」を単に教育内容を減らすという、目に見える分量の概念でしか捉えられない教師たちの発想は「唯物的な考え」であるとも言えるでしょう。真の教育改革は、唯物教育を中心に展開してきた日教組を主流とする教師自身の教育理想から変えなければならないのだと思います。

最近、テレビで「小学生から○○○会、東大・京大・早稲田・慶応・・・」というコマーシャルがありますが、私は感心しません。少子化が進んだために大学受験生が減る傾向があり、創立30年の両国予備校などは今月8日に閉鎖せざるを得なくなりました。そういう関係もあって受験産業がどんどん低年齢を狙ってきているのかもしれません。しかしながら、自由闊達な発想を芽生えさせる小学生の時期から学歴偏重の価値観を押しつけることは問題があるのではないでしょうか。

学校の教師も受験産業にたずさわる方々も含めて、日本の将来を担う青少年の教育のあり方について、受験主義・商業主義の観点を超えて真剣に考えるべき時がきているように思います。



  「主体思想」がマルクス唯物論にまさる部分について 2005/02/07(Mon.) 14:38 

一連の話の流れですが、故金日成主席の主体思想の中で、私が「単なる唯物論以上のもの」として評価する部分について、もう少し具体的に指摘しておきます。

まず第一に、マルクスの唯物論においては社会発展の動きとして(生産力と生産関係の矛盾とその止揚を繰り返すことで)歴史は必然的に共産主義になる、という歴史必然論=唯物史観が説かれており、これは多くの学者によって批判されてきた考えであることは周知の事実です(有名な所では津田左右吉博士の唯物史観批判書「必然・偶然・自由」1950、角川新書など)。

ところが、そういう歴史必然論に対して金日成の主体思想では「人間をたんなる世界の一部分としてではなく、世界を支配する主人にすることによって、従来と異なり世界の主人である人間を中心に、世界とその変化発展に対応する新しい世界観を確立」したということ、そして「唯物論者たちも、人間を中心にして世界にたいする観点と立場を示すことはできませんでした」ということが述べられ、マルクス唯物論との相違が明確にされています(金正日「チュチェ思想について」1982、134頁)。

すなわち、主体思想では人間を単なる唯物的な物質とはみなさず(単に唯物史観的な歴史の必然性に服従する存在ではなく)、自主性・創造性・意識性(これらを主体思想では「三大属性」と呼びますが)を有する世界で唯一の存在であると説かれているのです。

主体思想研究家の井上周八博士(立教大名誉教授)は「唯物弁証法的世界観は、時代的制約もあって、まだ、自然と社会の支配者、改造者、世界の主人としての人間の本質を明らかにすることができず、したがって人間中心の世界観にまでは到達することができなかった」と解説しておられます(井上周八「解説チュチェ思想」1992、25頁)。

そうなると、単なる唯物論とは違って、主体思想の場合は世界に人類が存在するか否かによって決定的に世界観の意味が変わってきます。井上博士は「人類の出現によって世界は根本的に変化した」、「人間社会の出現により、世界は人間によって支配され改造される世界となったのであり、(中略)人間は、あらゆるものの主人としての地位をしめ、世界を改造変革する役割を果たすこととなったのである」(井上前掲書、93頁)とも述べていますので、主体思想が従来の唯物史観とは決定的に異なることは明らかであり、これは全ての万物を治める者として人間が創造されたとする聖書的な世界観・歴史観にも通じるとさえ評価できるのではないかと私は考えます。

このことは、主体思想が「霊」という言葉を使わないものの、人間というものを単なる物質次元を超えるものとみなしている証拠であり、更に唯物史観が陥った歴史必然論をも克服している面があるとも言えるのではないでしょうか。もっと言えば、キリスト教における予定説的な一種の歴史必然論をも超える可能性を秘めた側面があると思われるのです。


ただ、やはり主体思想は「無神論」であるため、人間が主体の思想ということですから、そこから絶対的な価値観を導出することはできず、壁にぶつかってしまうのです。国家論などにおいてもどうしても人間による独裁体制に陥らざるを得なかった、ということです。そして、今日の北朝鮮の悲劇的な結末になったのです。

ちなみに、統一原理による歴史観(統一史観)においては、歴史における人間の決定的な役割を認めています。しかし、創造主としての神と、神の子としての人間が親子の関係を復帰する一連の流れ(復帰摂理歴史)として歴史の全体像がとらえられ、そこに神と人間が摂理歴史において責任を分担しているという発見による詳細な歴史観が展開されています。
私は、北朝鮮が無神論の過ちに気づき、神を中心とする神主義(ゴッディズム)の思想に目覚めていただいて、あまりにも多くの犠牲者を出した歴史から解放されることを強く願うものです。

北朝鮮の思想についての評価は、単なる感情論に走ることなく、積極的に評価すべきは評価する、また間違いは間違いとする、という是々非々の立場をとることが重要ではないでしょうか。
そういう、お互いの思想の相違についての細かい検討作業を欠いてしまっては、真実に心の通った友好関係を確立することは困難なのではないかと私は考えています。



  「主体思想」をめぐる誤解について 2005/02/06(Sun.) 17:20 

下の私の文章(2月5日)について大きく誤解された方がおられたようですので、もう少し補足しておきたいと思います。それは、私が北朝鮮の「主体思想」の一部分について一定の評価をしたことをめぐって生じた誤解です。すなわち、統一教会は北朝鮮のような国を目指すのか、と。。。(笑)

統一教会やその教義(統一原理)に対して誤解をしたり誹謗中傷するのは、決して共産主義者だけではありません。統一教会の思想を大きく誤解して教会から離れ、「青春を(お金に換算して)返してよ」などと言う、いわゆる「元信者」と言われる人々にも言えることです。

元信者の方の中で「aki」というハンドルネームの方が、私の文章に寸評を加えて下さっていますので、それについて書くことで説明しておきましょう。
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akiさんいわく、
「金日成の主体思想と統一原理はよく似ているのだそうな。。
・・・・・それ怖くない?
・・・・・それ良いこと?
・・・・・要するに、統一原理で国を作ると北朝鮮のような国になりますよ・・・・と言うことでしょう?こぇ〜」と。

しかし、これほど短絡的で「恐い」考えもめずらしいと言わねばなりません。統一教会が北朝鮮のような国を目指していないことは明々白々であって、それはこれまで勝共活動などがいかなる闘いをしてきたかを見ても一目瞭然です。こういう短絡的な考えをしてしまう所がakiさんの微笑ましい個性なのかもしれませんが、こういう短絡思考では人の意見を全く反対の意味に誤解してしまうのではないかと思われます。

私が申し上げているのは、北朝鮮は共産主義国家のように言われているけれども「主体思想」を読めば、一般の共産主義とはかなり異質なものを感じる、ということです。
例えば、主体思想の中でも「人間が宇宙における中心存在である」と考える部分、また「人間は単なる物質ではない」という部分などですが、それは主体思想が通常の唯物論ではないことを示す側面であり、むしろキリスト教思想や統一原理の一部分にも通じるような側面であると私は考えています。

そういうわけで、私は単なるマルクス・エンゲルスの唯物論よりも、金日成の主体思想のほうが優れている面があると考えています。評価すべきは正直に評価しなければなりません。北朝鮮で生じた考えだからという理由で、頭から全部否定してしまうのは間違った姿勢だと私は思います。
しかしながら、主体思想を部分的に評価したからといって「じゃあ統一教会は北朝鮮みたいな国を目指すのか」などというのは、それこそ単なる感情論でしょう。

主体思想は、人間存在というものに対する認識において単なるマルクス的な唯物論よりも勝っている面がありますが、本質的に無神論であるため、「神」「真の愛」「真の家庭」というものを導き出すことができず、どうしても国家体制などにおいて限界があるのです。そして、その国家が至った現状が悲惨なものであることはもはや世界に周知の事実でありましょう。


独裁者の例をあげれば、ヒトラーの考えなどにもキリスト教の終末観によく似たものを見い出すことができます。しかし、ヒトラーが作った国家は全くキリスト教の平和理想とはかけ離れたものでした。
「似ている部分がある」ということから「同じような国をつくるに違いない」という結論を短絡的に導くakiさんの思考方法は、詳細な理念や内容を故意に無視して誹謗中傷する間違った考えであるように私には思われます。

また、akiさんいわく、
「某現役さんは、この記事を好意的に書いてもらったと思っているようだが・・・これを読んだ一般人はもっと統一教会を胡散臭く思うんだろうな、怖いと思うだろうな・・・・と思いました」と。

産経新聞社の「正論」の記事が果たして「好意的に書いてもらった」ものかどうか。。。(笑)。「正論」を購入して読んでいただければ分かると思いますが(笑笑)、もしも「好意的」な文章であれば、もっともっと違う表現になってしかるべき部分が多々あると思います(笑笑笑)。

こういうことについても、akiさん(または「元信者」と言われる方々)が非常に強い思い込みをされる性格を持っておられる面ではないかなあ、と私は思います。
まあしかし、河信基氏の論文に話を戻せば、統一教会の内容について曲解した意見を振りかざすのではなく、できるだけ客観的に記述しようとされた河氏に対して、確かに私としては感謝の気持ちを表したいというのが素直なところではあります。なぜなら、これまで統一教会の活動についての評論といえば、(元信者の意見も含めて)あまりにも一方的で酷い論評が多かったからです。

蛇足だったかもしれませんが、誤解を生じた方々もおられたようですので、念のため補足とさせていただきました。



  産経「正論」の河氏論文を読んで 2005/02/05(Sat.) 23:33 

産経新聞社の「正論」3月号の中で、元朝鮮大学校教授の河信基氏が統一教会のことを書いて下さっています。よくお調べになったなあと感心する部分もあるし、「それはどうかな?」と首をかしげる部分もあるのですが、概して客観的な記述に努めておられるという真摯な印象を私は受けました。

私が河氏の論文の中で高く評価したいのは、河氏が自ら統一教会の教義(統一原理)をお聴きになった上で、その印象として「金日成の『チュチェ(主体)思想』と考え方が極めて似通っているというのが実感」だったという感想を持たれ、1991年に文鮮明師(統一教会教祖)と金日成主席が意気投合して対談したり、お互いに「義兄弟の契り」を結んだりするなどして「宗教や思想を超えて認め合ったのはそれほど不思議ではない」と書いておられる点です。これはもう、よく分析しておられると言う他ありません。

河氏は統一原理を聴講された結果、それが主体思想と似ているとおっしゃるわけですが、実は私は主体思想の研究家として知られる井上周八博士(立教大名誉教授)の「解説チュチェ思想」(チュチェ思想国際研究所、1992)を読んだ時、「人間は単なる物質ではない」「人間があらゆるものの主人である」というような記述などから総合的に見て、「この思想の本質は共産主義ではなく、むしろ統一原理に通じるものがある」ということを感じました。

ご存じの方は多いかもしれませんが、統一教会は共産主義や無神論・唯物論の虚偽を昔から指摘し、北朝鮮の体制なども批判してきました。例えば「万景峰号の入港阻止」「日本人妻の里帰り」運動など、統一教会は30年前から命がけでやっています。
しかし、統一原理は単に共産主義と闘うことが目的なのではなく、人類を和合統一する目標に向かうものです。文鮮明という人は、思想犯として北朝鮮の強制収容所に2年8か月投獄されていた人物ですから北朝鮮に恨みを持って当然の立場なのですが、恨みを恨みによって返せば永遠に平和は来ません。ですから、文鮮明師と金日成主席の対談には、そういう平和思想の原点があるのです。


統一教会の思想的な原点はまだまだ一般に知られていません。それどころか、日本ではごく一部の左翼的弁護士やジャーナリスト、赤旗、朝日新聞などによって種々にねじ曲げられて伝わっています。
今回の「正論」の論文が統一教会の実態を十分に伝えるものというわけではありませんし、統一原理が主体思想と似た面があるとはいっても、統一原理自体は聖書の奥義を解き明かすものですから、あくまでも一つの側面を述べたものにすぎません。
ただ、これまで統一教会を酷評する虚偽に満ちた論評などがあまりに多かったことを考えると、今回の河氏の論考はきわめて客観的に記述されているという印象を受けました。これから、もっと統一原理の内容に迫るような論評が一般に増えることを願いたいものです。



  郵政民営化を強行する小泉首相の説明責任 2005/02/01(Tue.) 18:09 

NHKの海老沢元会長は結局「三日天下」ならぬ「三日顧問」ということで、顧問就任後わずか3日間で辞任されました。しかし、NHK新会長の橋本氏は本人の辞任を了承したものの、顧問就任の人事(会長に権限がある)については「間違っていなかったと思う」と語っているので、NHKの「世間知らず」的な体質はそのまま続くものと見て間違いないでしょう。

世間知らずといえば、小泉政権の支持率が33%に低下したということですが、あの国会中継を見ていると世間一般からの支持率低下は当然のことでしょう。小泉さんの印象がめちゃくちゃ悪いです。世間の人々が持つ感覚が全く理解できていない、ということなのかもしれません。

国会の質疑で同じ答えを単純に繰り返すのが小泉さんの趣味かもしれませんが、ああいう答弁では「国会議事堂」は不要になってしまいます。ひょっとして、小泉さんは国会の答弁を「証人喚問」か何かと間違えておられるんじゃないかとさえ思いたくなってしまいます。

しかも、そういう説明不足の状態で「郵政民営化」という大きな改革を押し通そうとされる感覚には非常に危険な独裁的体質を感じますし、簡単に支持することはできません。

民営化が成功した事例として国鉄があげられますが、国鉄の場合は民営化される前から「私鉄」という同業他社が存在していたのであり、国鉄の運賃と対等の価格で経営していたのです。そしてむしろ、そういう私鉄の経営実績があったからこそ国鉄民営化は実現したとも言えるのです。

ところが、郵便局の場合は事情が全く違います。郵便局は「国鉄」とは違って国民生活の必要上、商売上の利益追求を度外視して日本列島の全地域に必ず網羅された集配のネットワークです。ですから、郵便局は経営上「採算が合わない」といって郵便物の受け付けを拒絶されることもないからこそ安心なのです。これは民間企業では真似できません。


また、国鉄が民営化を迫られたのはいわゆる「国鉄体質」という問題があったからですが、郵便局の窓口は地元の住民といつも直接会話をする「顔見知り」の状態になっていることが多く、国鉄のような官僚体質や無気力体質は感じられません。

民営化した場合に郵送料がどうなるかということも議論されていますが、民間の運送会社の場合、1枚の葉書を全国どこでも(山奥でも離島でも)遅れることなくわずか50円で配達してくれる業者など一つもありません。そんな企業があったら、とても採算が合わないのですぐに倒産してしまうでしょう。

小泉さんの論法では、民営化すると自由競争が始まるので運送料も安くなるということですが、手紙の郵送料80円から更に安くなることなど到底考えられないばかりか、逆に高くなるという根拠をいくつも見いだすことが出来ます。

例えば、通常は葉書(50円)と手紙(80円)では30円の差額にすぎませんが、民間の配達事業においては葉書と手紙の重さや体積の違いは非常に重大ですから、この差額は更に大きくなることは確実です。

また、小泉さんは他の省庁に比べて郵政省だけは公務員が圧倒的に多いということを問題にして、官僚や公務員を減らさねばならないから民営化すると言うのですが、郵政省は仕事の性質上公務員が多くなるのは当然です。仕事の内容が全く異なる外務省などと単純に比較する議論の仕方そのものが間違っています。
私は郵便局を利用する機会が多いですが、ずいぶん待たされることも多いし、細かい相談をしている人もよく見かけますので、部分的には人員が足りないぐらいではないかという実感すらあります(東京都内の話ですが)。

なんにしても、小泉さんがあくまでも郵政民営化を断行しようとされる以上、もっと細かい点で説明をする責任があるでしょう。何でも民営化すればいいというものではないですし、小泉さんにとっても国会はそれを雄弁に説明する絶好のチャンスであるはずではないでしょうか。そのチャンスを国民から理解を得る場として利用せず、曖昧な答弁に終始して、郵政民営化という結論部分だけを強行に押し通そうというのであれば、ますます支持率が低下しても仕方ないと言わねばなりません。



  NHK海老沢氏の辞任に思うこと 2005/01/27(Thu.) 12:08 

「金正日」になぞらえて「エビ・ジョンイル」とも評された海老沢元NHK会長が一連の不祥事の責任を取って辞任しました。しかし、その直後にNHKの「顧問」になるのだということですから、辞任と引き換えに内定していたものなのでしょうけれども、この人が本当に反省した結果辞任したものかどうか怪しくなります。

また、辞任といっても退職金が1億2000万円ぐらい入るという話もありますから、この不況の世の中、仕事から解放されると同時に早々と億単位の金を受け取れるという処遇はむしろ本人にとっては都合のよい話です。退職金を辞退すべしという声が多いのもうなづけます。

しかも「NHK顧問」という高い位置から現職の役員・社員らに対して正式に堂々と「圧力」をかけることの出来る“雲の上”のポストが保証されたわけです。そう考えると、今回の辞任は本人にとっては「願ったり叶ったり」の嬉しい悲鳴を押さえられない出来事だったというのが実状かもしれません。

そもそもNHKというテレビ局は民間放送ではなく、具体的には国民の経済的支援(受信料)が得られて始めて成り立つ存在ですから、これ以上国民の反感を招くことをするのは自分の首を絞めることになるし、別の言い方をすれば自分自身の姿が全くわかっていないと言わねばなりません。裸の王様「エビ・ジョンイル」という批評がますます当てはまってくるという感じです。

NHK受信料不払いの動きも拡大するでしょうから、経営が本当に危なくなる前に受信料に関する見直しを検討してもよい時期ではないかと思います。
現在、NHK受信料は(一般的には)2か月で2690円が引き落とされますから、年間で16140円です。20歳の人が60歳までの40年間を支払うと仮定して、総額64万5600円をNHKに支払うわけです。

単にテレビを設置するだけで、実質上これほど高額の契約を強いられるわけですから、NHKとしてはそれに見合う保証やサービスというものを考えてもよいのではないでしょうか。あるいは、いっそ通常の受信料を無料にして、NHKの収益を衛星放送とかNHKが独自に持っている莫大な(本当にこれは莫大な量ですが)資料を有効活用した出版・資料提供事業に限定するという考えも成り立ちます。むしろ、そういう積極的なサービス事業にしたほうがNHKの職員も意欲が出るというものです。

なにはともあれ、海老沢会長の辞任が「遅すぎた」という声もありましたが、「顧問就任」ということを聞いて裏が見えてしまいました。裸の王様にとっては、いまさら裏も表もないという現実を自覚してほしいものだと思うのですが、このNHKの体質は一筋縄ではいかないもののようです。




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