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江本武忠
(えもと・むちゅう)

(2005/03/04(Fri.) 16:59 〜 2005/01/09(Sun.) 23:32)

  「2ちゃんねる」の逆転敗訴 2005/03/04(Fri.) 16:59 

小学館の出版物に載っている対談を掲示板「2ちゃんねる」に無断転載されたということで、小学館と漫画家の北川みゆきさんが「2ちゃんねる」の管理者を訴えていました(転載の差し止めと著作権侵害等による300万円の損害賠償請求)。

1審判決(東京地裁)は原告の敗訴でした。理由は「著作権を侵害したのは書き込みをした本人であって管理者ではない」ということです。
ところが、3月3日の控訴審(東京高裁、塚原朋一裁判長)では、「管理者には、著作権侵害となる書き込みがあれば、速やかに是正する義務がある」と判示して、「2ちゃんねる」管理者に対して転載の差し止めと120万円の支払いを命じる決定がなされました。

確かに、インターネット上で誰もが見ることのできる掲示板などを運営している人には当然そういう管理責任が求められなきゃいけないでしょうから、この高裁判決は妥当なものだと思います。

しかし、よく掲示板を作ったまま、ほったらかしにして野放し状態になっているケースも見かけますが、今回の判決を考えると、それって本当に恐ろしいことだと思います。掲示板を立ち上げた人は、「カキコは自由です。トラブルはお互いで解決して下さい。わしゃ知らんよ」とは言えない、ということを意味しているわけです。



  ライブドアとニッポン放送の攻防 2005/03/03(Thu.) 20:36 

いやはや、驚きました。株式を上場した企業というものは、こういうことが起こり得るのですね。
一夜にしてライブドアがニッポン放送の大株主になり、「今日から僕があなたの主人です。さあ仲良くやりましょう」という感じで、突如として主人が変わる。。。長い歴史を持つニッポン放送の役員・社員たちはさぞかしビックリ仰天したことでしょう。

ジャーナリストの田原総一朗さんは、今回の件を新人類(堀江氏)対旧人類(フジサンケイグループ)の闘いだと言っておられましたが、確かにそういう面はあるかもしれません。頭突きや空手チョップの原始的な動きしか練習していなかった旧人類が、ささ〜っと軽く関節技を決める新人類の素早い動きに対応しきれないというイメージでしょうか。

しかし、ライブドアの堀江さんはニッポン放送に対して「仲良く」とか「友好的にやりましょう」と言われるのだけれど、事前の友好的な話し合いもないのに、お金持ちであるという以外によく分からない相手に対して急に「ご主人様!」と言えるわけがありません。そんなことは常識で考えれば分かることでしょう。


堀江さんが使った“手品”は「時間外取引」というものでしたが、時間外取引そのものは別に違法なことではないにしても、特定企業の株を大量に買う場合には株取引の安定性や不透性が崩れる危険があることは確かでしょう。
ニッポン放送はこれが証券取引法違反の疑いがあるとして(実質的には3分の1以上の株購入が禁じられている市場外取引ではないかということで)、証券取引等監視委員会と東京証券取引所に調査を申し入れたとのことですが、まあそれはそれとして。。。

それにしても、この堀江式の奇襲攻撃に対してニッポン放送が行なった防衛策がこれまた驚きの戦術でした。ライブドアが33%とか50%という大量の株を買い占めるというのなら、ニッポン放送の会社のルール(定款)に書いてある株式発行の上限(8000万株)の内、まだ発行していない分の全部(4720万株)についてフジテレビ宛に予約権を発行する、というものでした。

堀江さんがやった奇襲作戦も奇策でしたが、ニッポン放送がやった新株予約権の発行というのも、誰が見ても「後出しジャンケン」に見えて実にインチキ臭い(笑)。
例えば、お寿司の早食い大会でライブドアが3分の1以上食べた所で「実はもう一皿あるんですよ」というルールに急に変えてしまうようなものです。しかも、増えた皿の分はフジテレビだけが食べる権利(新株予約権)を持っている(笑)。そりゃあ、堀江さんが裁判に訴えて発行を差し止める仮処分を申請するのも無理はないでしょう。

で、私の個人的な感想ですが。。。総じて、この両者の攻防をそれぞれ検討するに、どちらかと言えばニッポン放送を含むフジサンケイグループのほうに軍配を上げたくなります。
なぜかと言いますと、堀江さんはあちこちでいろいろなコメントをされているので正確な所は分かりにくいのですが、私が最も注目したのは「法律の不備を突いた」という堀江さんの表現で、私はこの辺にライブドアの違法性を感じたのです。この堀江さんの発言は一体何を意味するでしょうか。

そもそも日本の国は資本主義ですから、株の取引が活発に行なわれ、しかも安定していることが非常に重要であることは言うまでもありません。
ところが、堀江さんのような奇襲攻撃をして会社を買収する行為があちこちで勃発したら、株取引の安定性が崩れてしまうことは誰にも分かることです。だからこそ、政府は緊急に証券取引法の改正をする方向になったわけです。つまり、法律に「不備」があったので改正しようというのです。

そこで、堀江さんが述べた「法律の不備を突いた」という発言について考えると、これは明らかに法律が不備であることを熟知しつつ確信犯的になされたもので、その行為によって株取引の安定性に重大な支障が生じるであろうことを最もよく予測できた人物こそ堀江さん本人であった、ということが言えると私は思うのです。

つまり、堀江さんの行為は外形上は認められるように思えるのですが、堀江さんはそれを「不備」であると知らない立場で(つまり善意で)なしたのではなく、その権利を「法律の不備を突く」という目的で行使して株取引の安定性を故意に損なったわけですから、明らかに「権利の濫用」であると思われるし、権利を行使する際には信義に則らねばならないという民法上の「信義則違反」であると言えるかもしれません。


話が少々ややこしくなりましたが、ともかく日本は法治国家であり法社会の安定基盤の上に成り立っていますので、「法の不備」を知りながらそれを逆利用することで法社会の安定性をかき乱しておいて、「悔しかったら法を改正すればいいだろう」というような態度は、未成年者ならばいざ知らず、立派な株式上場会社の社長のすることとは思えない、というのが私の堀江さんに対する現在の所感です。

もちろんニッポン放送が講じた新株予約権の大量発行という行為も決してほめたものではないと思いますが、そういうことを緊急避難的になさざるを得なくなった元の原因となる行為、すなわち堀江さんの時間外取引をめぐる行為自体に不当性があったとすれば、法律的判断としてはもはやニッポン放送の行為の正否を判断するまでもなく、ライブドアの主張はしりぞけられるべきである、というのが現時点における私の考えです。



  ゲーム感覚の延長としての殺人 2005/02/24(Thu.) 18:59 

今月14日、大阪・寝屋川の市立中央小学校で、卒業生の17歳の少年が3名の教諭らを殺傷するという事件が起きました。いじめに対して対応しなかった教師への恨みがあったとも言われていますが、関係者らによるとそういう事実は確認できないと言われています。一体、どうしてこういう低年齢の凶悪犯罪が起きるのでしょうか。

この事件で、二つほど気になることがあります。一つは、犯人の少年が市販されているゲームのほとんどを持っていて、しかも学校で居眠りするほどにゲームに熱中していた、ということです。
もう一つは、犯行に及ぶ直前に少年は立て続けにタバコを3本吸っていたという証言があること、しかも犯行直後にもタバコを吸っている所を逮捕された、という事実です。

これは、少年がテレビゲームに中毒的な依存をしていたと同時にタバコにも中毒的に依存していたことを示しているのではないでしょうか。
タバコの中毒が脳の神経に悪影響を与えることは言うまでもないですが、「ゲーム脳の恐怖」の著者・森昭雄医師によると、大人になる前からテレビゲームに熱中しすぎると、脳が正常に発達せず、少年時から痴呆化が進む現象が起こるということです。

少年は犯行後、「どうして行なったのかわからない」と言ったということですが、もしも本気でそう言ったのだとしたら、場合によっては「ゲーム脳」の理論の通り、痴呆症的な雰囲気の発言であると解釈することもできるかもしれません。

そして、動機について曖昧な記憶しかないにもかかわらず、教諭らを殺傷した方法については「1人1人、狙いをつけて、思い切り刺した」と述べ、正確に殺傷の様子を話しているのです。これこそまさに、ゲーム感覚の殺人であったことを物語っていると言えるのではないでしょうか。

通常の殺人事件の場合、犯行の動機はハッキリしているけれども、犯行時には無我夢中でどうやって刺したか覚えていないという現象がよく見られますが、この少年の場合は全く逆で、犯行の動機が曖昧であるにもかかわらず殺傷した方法についてはまるで刺激的なゲームを楽しんだかのように明確に覚えているのです。


少年についての情報は必ずしも多くはないのですが、少年は家族の話になると泣き出すこともあると言われています。それは、彼には親しい人間関係が存在しないため、彼にとってバーチャルでない唯一のリアルな心情的関係を結ぶことのできる存在が家族だけだったからに他ならないと思われます。「現実」というものに接する通路があまりにも狭かったと言うべきなのでしょうか。

今回の事件で注目すべきは、彼が決して成績の悪い学生ではなかったということです。彼は中学2年の2学期から不登校となり、独自に勉強して大検に合格し、大学の受験資格を得たと言われています。犯行はまさに受験シーズンの最中に起きましたので、大学という新しい現実の環境に進む上で長期間の不登校期間というマイナスの過去を何らかの形で整理しない限り前に進むことのできない精神的な壁があったのかもしれません。そして、今までのゲーム感覚の生活と、社会的な責任を負う現実の大学生活との間に存在する目に見えないギャップを埋めてくれる存在(=真の教師)が彼において存在していなかったことに対するジレンマが、突如として教師を襲うという形で噴出したと考えることもできるのかもしれません。

ゲームの世界はバーチャルですから刺激的であっても痛みがありません。しかも、何度でも繰り返すことができるという独特の軽さがあります。テレビゲームが低年齢層に浸透した今日、今後も同種の犯罪が起こる可能性はますます高まっていると思われます。

今回の事件で死亡した教諭は親からも生徒からも慕われていた有能な方であったということで、その損失はいかばかりかと思いますが、その犠牲を無駄にしないためにも、この少年が「現実」を取り戻すための最善の道をさぐって、今後も起こりうべき犯罪への教訓を残さねばならないと思います。



  真のキリスト精神による平和 2005/02/17(Thu.) 23:40 

旧約聖書のゼカリヤ書には「主は言われる、全地の人の3分の2は断たれて死に、3分の1は生き残る」(13章8節)と書かれていますが、共産主義という悪魔の暴力的無神論思想によって地上の3分の2までが共産化され、おびただしい犠牲者を出すという歴史を人類は経験しました。

しかし近年、神の救いの摂理によって共産主義はどんどん解放されました。そして、最後の最後まで共産主義を守り抜こうとしているのが、ご存じのように北朝鮮という国です。亡命者の証言を聞くまでもなく、国民は共産思想による洗脳の犠牲となっています。

なぜ北朝鮮が悪魔の思想である共産主義によって、あれほど縛られてしまうのか。なぜ悪魔が北朝鮮にあれほどまでに執着するのか。それは、ある意味では北朝鮮という国は人類の歴史において非常に重要な意味を持つ国であるからかもしれません。

統一教会の創始者である文鮮明師は北朝鮮に生まれましたが、徹底して共産主義の間違いを指摘し、「勝共思想」を説いたことは周知の事実です。特に北朝鮮の共産主義思想(主体思想)については徹底的にその誤りを指摘しました。

そのようにして文鮮明師と北朝鮮の金日成主席は思想的に全く対立していたのですが、文師は単に共産主義を批判していたのではありません。ついに文師の説く思想の根底にある愛の精神が金日成主席の心に届き、主席の心は大きく動かされました。そして1991年12月6日、文鮮明師と金日成主席はお互いにうち解けて意気投合したばかりか、「兄弟関係」を結ぶに至ったという歴史がありました。

それは、まるで聖書(創世記)に書かれているエサウとヤコブの物語に似た出来事でした。エサウとヤコブは双子の兄弟でしたが、長い期間エサウはヤコブと対立していました。しかしヤコブが真実エサウを愛していることを知った時、彼らは兄弟の関係を取り戻し、一つになって抱き合ったのでした。

たとえ無神論的共産主義の国家主席といえども、真実の平和精神の前には心を開くのです。そして、その平和精神を世界レベルに拡大しなければならないのが今の時代だと言えるでしょう。世界はテロの危機にさらされていますが、その問題を根本的に解決するのは政治や軍事によるものではなく、心と心の対話であり宗教思想の和合統一しかないのではないでしょうか。

さて、世界の中でキリストの精神を説き、平和の思想を普及しているのは何といってもローマ法王でしょう。尊い実践の姿だと思います。先頃、インフルエンザで入院されたという報道がありましたが、数日で回復されたことを心から喜びたいと思います。

悪魔の思想は国家を支配しましたが、全世界を支配するには至っていません。そして、世界には真実のキリスト精神が現れねばならないのでしょう。それは従来のキリスト教精神にとどまるものではなく、再臨のキリストが説く新しい真理(統一原理)によるものでなければならない、と私は考えます。

これ以上の話は統一原理自体にゆずることにしますが、ローマ法王は文鮮明師の誕生の約3か月後(1920年5月18日)に誕生しておられ、お二人とも今年は85歳です。ローマ法王が共産政権のポーランドから選ばれた法王であるという事実も歴史的に重要ですが、文師とローマ法王がお互いに独自の立場からキリストの平和思想を世界に示す兄弟のような関係にあることも重要な事実だと思われます。ローマ法王がご健康に恵まれるよう祈ると共に、これからの法王の動きに注目したいと思います。

ところで、北朝鮮と日本との対話については、いろいろな問題はあってもここ数年でずいぶん深められたことは確かです。そして、北朝鮮との対話を果敢に進めた小泉首相(1942年1月8日誕生)は金正日総書記と約40日ほどしか違わない同年齢(63歳)ですが、そういう事実にさえ何か深い意味を感じ取るべき時が今の時代なのかもしれません。神のなさる摂理には常に霊妙不可思議な背景があるのでしょう。



  「ゆとり教育」という名の教育放棄 2005/02/13(Sun.) 12:04 

中山文部科学大臣は、いわゆる「ゆとり教育」が学生の学力を低下させてしまったという見解を述べています(読売新聞のインタビュー等)。「ゆとり教育」というネーミングは現在の閉塞した日本の状況で、何となく伸び伸びした明るい印象があるだけに、その実態に多くの人が欺かれてしまったのかもしれません。

「ゆとり教育」というのは、要するに授業時間を減らしたり教科書の分量を減らして「あまり多くのことを教えない」という教育方針のことでした。中山大臣は、「ゆとり教育が“勉強しなくてもよい”という誤ったメッセージを児童・生徒や教師に発してきたのではないか」と指摘したということですが、これは最初から当然予想されたことでしょう。遊びたい盛りの子供たちに授業以外の時間を与えれば一体誰が勉強するでしょうか。遊ぶに決まっています。学校を一歩出たら元気に遊ぶ、というのも青少年の健全な姿ですから、それ自体をとがめることは出来ません。

では、どうしてそういう「ゆとり教育」が始められたのかという原点に戻ると、結局は「教師が休みたいから」「教師が生徒と会う時間を減らしたいから」ということに帰結するような気がしてなりません。教師の側に教育に対する何のビジョンもないのです。教師はもはや教育者ではなく「労働者」という概念のほうが近くなっているのでしょう。

「ゆとり教育」は、これまで受験中心だった「つめこみ教育」に対する反省から出てきたものかもしれませんが、いわゆる「つめこみ教育」は教科書の分量が多すぎることが問題の本質だったのではなく、「自分の頭で考える」という創造性・自主性の喪失こそが問題だったのです。


もしも、教師たちが「つめこみ教育」の弊害の本質を悟り、もっと創造性や学習に対する意欲を持たせるような教育改革を打ち出していれば、むしろ学生は「もっともっと先のことを学びたい」という姿勢になる可能性もあるのであって、授業時間や教育内容を減らすどころか、学習意欲を示す生徒に対しては別途に課外授業を設ける必要すら出てくることもあり得るのです。

「ゆとり教育」を単に教育内容を減らすという、目に見える分量の概念でしか捉えられない教師たちの発想は「唯物的な考え」であるとも言えるでしょう。真の教育改革は、唯物教育を中心に展開してきた日教組を主流とする教師自身の教育理想から変えなければならないのだと思います。

最近、テレビで「小学生から○○○会、東大・京大・早稲田・慶応・・・」というコマーシャルがありますが、私は感心しません。少子化が進んだために大学受験生が減る傾向があり、創立30年の両国予備校などは今月8日に閉鎖せざるを得なくなりました。そういう関係もあって受験産業がどんどん低年齢を狙ってきているのかもしれません。しかしながら、自由闊達な発想を芽生えさせる小学生の時期から学歴偏重の価値観を押しつけることは問題があるのではないでしょうか。

学校の教師も受験産業にたずさわる方々も含めて、日本の将来を担う青少年の教育のあり方について、受験主義・商業主義の観点を超えて真剣に考えるべき時がきているように思います。



  「主体思想」がマルクス唯物論にまさる部分について 2005/02/07(Mon.) 14:38 

一連の話の流れですが、故金日成主席の主体思想の中で、私が「単なる唯物論以上のもの」として評価する部分について、もう少し具体的に指摘しておきます。

まず第一に、マルクスの唯物論においては社会発展の動きとして(生産力と生産関係の矛盾とその止揚を繰り返すことで)歴史は必然的に共産主義になる、という歴史必然論=唯物史観が説かれており、これは多くの学者によって批判されてきた考えであることは周知の事実です(有名な所では津田左右吉博士の唯物史観批判書「必然・偶然・自由」1950、角川新書など)。

ところが、そういう歴史必然論に対して金日成の主体思想では「人間をたんなる世界の一部分としてではなく、世界を支配する主人にすることによって、従来と異なり世界の主人である人間を中心に、世界とその変化発展に対応する新しい世界観を確立」したということ、そして「唯物論者たちも、人間を中心にして世界にたいする観点と立場を示すことはできませんでした」ということが述べられ、マルクス唯物論との相違が明確にされています(金正日「チュチェ思想について」1982、134頁)。

すなわち、主体思想では人間を単なる唯物的な物質とはみなさず(単に唯物史観的な歴史の必然性に服従する存在ではなく)、自主性・創造性・意識性(これらを主体思想では「三大属性」と呼びますが)を有する世界で唯一の存在であると説かれているのです。

主体思想研究家の井上周八博士(立教大名誉教授)は「唯物弁証法的世界観は、時代的制約もあって、まだ、自然と社会の支配者、改造者、世界の主人としての人間の本質を明らかにすることができず、したがって人間中心の世界観にまでは到達することができなかった」と解説しておられます(井上周八「解説チュチェ思想」1992、25頁)。

そうなると、単なる唯物論とは違って、主体思想の場合は世界に人類が存在するか否かによって決定的に世界観の意味が変わってきます。井上博士は「人類の出現によって世界は根本的に変化した」、「人間社会の出現により、世界は人間によって支配され改造される世界となったのであり、(中略)人間は、あらゆるものの主人としての地位をしめ、世界を改造変革する役割を果たすこととなったのである」(井上前掲書、93頁)とも述べていますので、主体思想が従来の唯物史観とは決定的に異なることは明らかであり、これは全ての万物を治める者として人間が創造されたとする聖書的な世界観・歴史観にも通じるとさえ評価できるのではないかと私は考えます。

このことは、主体思想が「霊」という言葉を使わないものの、人間というものを単なる物質次元を超えるものとみなしている証拠であり、更に唯物史観が陥った歴史必然論をも克服している面があるとも言えるのではないでしょうか。もっと言えば、キリスト教における予定説的な一種の歴史必然論をも超える可能性を秘めた側面があると思われるのです。


ただ、やはり主体思想は「無神論」であるため、人間が主体の思想ということですから、そこから絶対的な価値観を導出することはできず、壁にぶつかってしまうのです。国家論などにおいてもどうしても人間による独裁体制に陥らざるを得なかった、ということです。そして、今日の北朝鮮の悲劇的な結末になったのです。

ちなみに、統一原理による歴史観(統一史観)においては、歴史における人間の決定的な役割を認めています。しかし、創造主としての神と、神の子としての人間が親子の関係を復帰する一連の流れ(復帰摂理歴史)として歴史の全体像がとらえられ、そこに神と人間が摂理歴史において責任を分担しているという発見による詳細な歴史観が展開されています。
私は、北朝鮮が無神論の過ちに気づき、神を中心とする神主義(ゴッディズム)の思想に目覚めていただいて、あまりにも多くの犠牲者を出した歴史から解放されることを強く願うものです。

北朝鮮の思想についての評価は、単なる感情論に走ることなく、積極的に評価すべきは評価する、また間違いは間違いとする、という是々非々の立場をとることが重要ではないでしょうか。
そういう、お互いの思想の相違についての細かい検討作業を欠いてしまっては、真実に心の通った友好関係を確立することは困難なのではないかと私は考えています。



  「主体思想」をめぐる誤解について 2005/02/06(Sun.) 17:20 

下の私の文章(2月5日)について大きく誤解された方がおられたようですので、もう少し補足しておきたいと思います。それは、私が北朝鮮の「主体思想」の一部分について一定の評価をしたことをめぐって生じた誤解です。すなわち、統一教会は北朝鮮のような国を目指すのか、と。。。(笑)

統一教会やその教義(統一原理)に対して誤解をしたり誹謗中傷するのは、決して共産主義者だけではありません。統一教会の思想を大きく誤解して教会から離れ、「青春を(お金に換算して)返してよ」などと言う、いわゆる「元信者」と言われる人々にも言えることです。

元信者の方の中で「aki」というハンドルネームの方が、私の文章に寸評を加えて下さっていますので、それについて書くことで説明しておきましょう。
[Click Here!]

akiさんいわく、
「金日成の主体思想と統一原理はよく似ているのだそうな。。
・・・・・それ怖くない?
・・・・・それ良いこと?
・・・・・要するに、統一原理で国を作ると北朝鮮のような国になりますよ・・・・と言うことでしょう?こぇ〜」と。

しかし、これほど短絡的で「恐い」考えもめずらしいと言わねばなりません。統一教会が北朝鮮のような国を目指していないことは明々白々であって、それはこれまで勝共活動などがいかなる闘いをしてきたかを見ても一目瞭然です。こういう短絡的な考えをしてしまう所がakiさんの微笑ましい個性なのかもしれませんが、こういう短絡思考では人の意見を全く反対の意味に誤解してしまうのではないかと思われます。

私が申し上げているのは、北朝鮮は共産主義国家のように言われているけれども「主体思想」を読めば、一般の共産主義とはかなり異質なものを感じる、ということです。
例えば、主体思想の中でも「人間が宇宙における中心存在である」と考える部分、また「人間は単なる物質ではない」という部分などですが、それは主体思想が通常の唯物論ではないことを示す側面であり、むしろキリスト教思想や統一原理の一部分にも通じるような側面であると私は考えています。

そういうわけで、私は単なるマルクス・エンゲルスの唯物論よりも、金日成の主体思想のほうが優れている面があると考えています。評価すべきは正直に評価しなければなりません。北朝鮮で生じた考えだからという理由で、頭から全部否定してしまうのは間違った姿勢だと私は思います。
しかしながら、主体思想を部分的に評価したからといって「じゃあ統一教会は北朝鮮みたいな国を目指すのか」などというのは、それこそ単なる感情論でしょう。

主体思想は、人間存在というものに対する認識において単なるマルクス的な唯物論よりも勝っている面がありますが、本質的に無神論であるため、「神」「真の愛」「真の家庭」というものを導き出すことができず、どうしても国家体制などにおいて限界があるのです。そして、その国家が至った現状が悲惨なものであることはもはや世界に周知の事実でありましょう。


独裁者の例をあげれば、ヒトラーの考えなどにもキリスト教の終末観によく似たものを見い出すことができます。しかし、ヒトラーが作った国家は全くキリスト教の平和理想とはかけ離れたものでした。
「似ている部分がある」ということから「同じような国をつくるに違いない」という結論を短絡的に導くakiさんの思考方法は、詳細な理念や内容を故意に無視して誹謗中傷する間違った考えであるように私には思われます。

また、akiさんいわく、
「某現役さんは、この記事を好意的に書いてもらったと思っているようだが・・・これを読んだ一般人はもっと統一教会を胡散臭く思うんだろうな、怖いと思うだろうな・・・・と思いました」と。

産経新聞社の「正論」の記事が果たして「好意的に書いてもらった」ものかどうか。。。(笑)。「正論」を購入して読んでいただければ分かると思いますが(笑笑)、もしも「好意的」な文章であれば、もっともっと違う表現になってしかるべき部分が多々あると思います(笑笑笑)。

こういうことについても、akiさん(または「元信者」と言われる方々)が非常に強い思い込みをされる性格を持っておられる面ではないかなあ、と私は思います。
まあしかし、河信基氏の論文に話を戻せば、統一教会の内容について曲解した意見を振りかざすのではなく、できるだけ客観的に記述しようとされた河氏に対して、確かに私としては感謝の気持ちを表したいというのが素直なところではあります。なぜなら、これまで統一教会の活動についての評論といえば、(元信者の意見も含めて)あまりにも一方的で酷い論評が多かったからです。

蛇足だったかもしれませんが、誤解を生じた方々もおられたようですので、念のため補足とさせていただきました。



  産経「正論」の河氏論文を読んで 2005/02/05(Sat.) 23:33 

産経新聞社の「正論」3月号の中で、元朝鮮大学校教授の河信基氏が統一教会のことを書いて下さっています。よくお調べになったなあと感心する部分もあるし、「それはどうかな?」と首をかしげる部分もあるのですが、概して客観的な記述に努めておられるという真摯な印象を私は受けました。

私が河氏の論文の中で高く評価したいのは、河氏が自ら統一教会の教義(統一原理)をお聴きになった上で、その印象として「金日成の『チュチェ(主体)思想』と考え方が極めて似通っているというのが実感」だったという感想を持たれ、1991年に文鮮明師(統一教会教祖)と金日成主席が意気投合して対談したり、お互いに「義兄弟の契り」を結んだりするなどして「宗教や思想を超えて認め合ったのはそれほど不思議ではない」と書いておられる点です。これはもう、よく分析しておられると言う他ありません。

河氏は統一原理を聴講された結果、それが主体思想と似ているとおっしゃるわけですが、実は私は主体思想の研究家として知られる井上周八博士(立教大名誉教授)の「解説チュチェ思想」(チュチェ思想国際研究所、1992)を読んだ時、「人間は単なる物質ではない」「人間があらゆるものの主人である」というような記述などから総合的に見て、「この思想の本質は共産主義ではなく、むしろ統一原理に通じるものがある」ということを感じました。

ご存じの方は多いかもしれませんが、統一教会は共産主義や無神論・唯物論の虚偽を昔から指摘し、北朝鮮の体制なども批判してきました。例えば「万景峰号の入港阻止」「日本人妻の里帰り」運動など、統一教会は30年前から命がけでやっています。
しかし、統一原理は単に共産主義と闘うことが目的なのではなく、人類を和合統一する目標に向かうものです。文鮮明という人は、思想犯として北朝鮮の強制収容所に2年8か月投獄されていた人物ですから北朝鮮に恨みを持って当然の立場なのですが、恨みを恨みによって返せば永遠に平和は来ません。ですから、文鮮明師と金日成主席の対談には、そういう平和思想の原点があるのです。


統一教会の思想的な原点はまだまだ一般に知られていません。それどころか、日本ではごく一部の左翼的弁護士やジャーナリスト、赤旗、朝日新聞などによって種々にねじ曲げられて伝わっています。
今回の「正論」の論文が統一教会の実態を十分に伝えるものというわけではありませんし、統一原理が主体思想と似た面があるとはいっても、統一原理自体は聖書の奥義を解き明かすものですから、あくまでも一つの側面を述べたものにすぎません。
ただ、これまで統一教会を酷評する虚偽に満ちた論評などがあまりに多かったことを考えると、今回の河氏の論考はきわめて客観的に記述されているという印象を受けました。これから、もっと統一原理の内容に迫るような論評が一般に増えることを願いたいものです。



  郵政民営化を強行する小泉首相の説明責任 2005/02/01(Tue.) 18:09 

NHKの海老沢元会長は結局「三日天下」ならぬ「三日顧問」ということで、顧問就任後わずか3日間で辞任されました。しかし、NHK新会長の橋本氏は本人の辞任を了承したものの、顧問就任の人事(会長に権限がある)については「間違っていなかったと思う」と語っているので、NHKの「世間知らず」的な体質はそのまま続くものと見て間違いないでしょう。

世間知らずといえば、小泉政権の支持率が33%に低下したということですが、あの国会中継を見ていると世間一般からの支持率低下は当然のことでしょう。小泉さんの印象がめちゃくちゃ悪いです。世間の人々が持つ感覚が全く理解できていない、ということなのかもしれません。

国会の質疑で同じ答えを単純に繰り返すのが小泉さんの趣味かもしれませんが、ああいう答弁では「国会議事堂」は不要になってしまいます。ひょっとして、小泉さんは国会の答弁を「証人喚問」か何かと間違えておられるんじゃないかとさえ思いたくなってしまいます。

しかも、そういう説明不足の状態で「郵政民営化」という大きな改革を押し通そうとされる感覚には非常に危険な独裁的体質を感じますし、簡単に支持することはできません。

民営化が成功した事例として国鉄があげられますが、国鉄の場合は民営化される前から「私鉄」という同業他社が存在していたのであり、国鉄の運賃と対等の価格で経営していたのです。そしてむしろ、そういう私鉄の経営実績があったからこそ国鉄民営化は実現したとも言えるのです。

ところが、郵便局の場合は事情が全く違います。郵便局は「国鉄」とは違って国民生活の必要上、商売上の利益追求を度外視して日本列島の全地域に必ず網羅された集配のネットワークです。ですから、郵便局は経営上「採算が合わない」といって郵便物の受け付けを拒絶されることもないからこそ安心なのです。これは民間企業では真似できません。


また、国鉄が民営化を迫られたのはいわゆる「国鉄体質」という問題があったからですが、郵便局の窓口は地元の住民といつも直接会話をする「顔見知り」の状態になっていることが多く、国鉄のような官僚体質や無気力体質は感じられません。

民営化した場合に郵送料がどうなるかということも議論されていますが、民間の運送会社の場合、1枚の葉書を全国どこでも(山奥でも離島でも)遅れることなくわずか50円で配達してくれる業者など一つもありません。そんな企業があったら、とても採算が合わないのですぐに倒産してしまうでしょう。

小泉さんの論法では、民営化すると自由競争が始まるので運送料も安くなるということですが、手紙の郵送料80円から更に安くなることなど到底考えられないばかりか、逆に高くなるという根拠をいくつも見いだすことが出来ます。

例えば、通常は葉書(50円)と手紙(80円)では30円の差額にすぎませんが、民間の配達事業においては葉書と手紙の重さや体積の違いは非常に重大ですから、この差額は更に大きくなることは確実です。

また、小泉さんは他の省庁に比べて郵政省だけは公務員が圧倒的に多いということを問題にして、官僚や公務員を減らさねばならないから民営化すると言うのですが、郵政省は仕事の性質上公務員が多くなるのは当然です。仕事の内容が全く異なる外務省などと単純に比較する議論の仕方そのものが間違っています。
私は郵便局を利用する機会が多いですが、ずいぶん待たされることも多いし、細かい相談をしている人もよく見かけますので、部分的には人員が足りないぐらいではないかという実感すらあります(東京都内の話ですが)。

なんにしても、小泉さんがあくまでも郵政民営化を断行しようとされる以上、もっと細かい点で説明をする責任があるでしょう。何でも民営化すればいいというものではないですし、小泉さんにとっても国会はそれを雄弁に説明する絶好のチャンスであるはずではないでしょうか。そのチャンスを国民から理解を得る場として利用せず、曖昧な答弁に終始して、郵政民営化という結論部分だけを強行に押し通そうというのであれば、ますます支持率が低下しても仕方ないと言わねばなりません。



  NHK海老沢氏の辞任に思うこと 2005/01/27(Thu.) 12:08 

「金正日」になぞらえて「エビ・ジョンイル」とも評された海老沢元NHK会長が一連の不祥事の責任を取って辞任しました。しかし、その直後にNHKの「顧問」になるのだということですから、辞任と引き換えに内定していたものなのでしょうけれども、この人が本当に反省した結果辞任したものかどうか怪しくなります。

また、辞任といっても退職金が1億2000万円ぐらい入るという話もありますから、この不況の世の中、仕事から解放されると同時に早々と億単位の金を受け取れるという処遇はむしろ本人にとっては都合のよい話です。退職金を辞退すべしという声が多いのもうなづけます。

しかも「NHK顧問」という高い位置から現職の役員・社員らに対して正式に堂々と「圧力」をかけることの出来る“雲の上”のポストが保証されたわけです。そう考えると、今回の辞任は本人にとっては「願ったり叶ったり」の嬉しい悲鳴を押さえられない出来事だったというのが実状かもしれません。

そもそもNHKというテレビ局は民間放送ではなく、具体的には国民の経済的支援(受信料)が得られて始めて成り立つ存在ですから、これ以上国民の反感を招くことをするのは自分の首を絞めることになるし、別の言い方をすれば自分自身の姿が全くわかっていないと言わねばなりません。裸の王様「エビ・ジョンイル」という批評がますます当てはまってくるという感じです。

NHK受信料不払いの動きも拡大するでしょうから、経営が本当に危なくなる前に受信料に関する見直しを検討してもよい時期ではないかと思います。
現在、NHK受信料は(一般的には)2か月で2690円が引き落とされますから、年間で16140円です。20歳の人が60歳までの40年間を支払うと仮定して、総額64万5600円をNHKに支払うわけです。

単にテレビを設置するだけで、実質上これほど高額の契約を強いられるわけですから、NHKとしてはそれに見合う保証やサービスというものを考えてもよいのではないでしょうか。あるいは、いっそ通常の受信料を無料にして、NHKの収益を衛星放送とかNHKが独自に持っている莫大な(本当にこれは莫大な量ですが)資料を有効活用した出版・資料提供事業に限定するという考えも成り立ちます。むしろ、そういう積極的なサービス事業にしたほうがNHKの職員も意欲が出るというものです。

なにはともあれ、海老沢会長の辞任が「遅すぎた」という声もありましたが、「顧問就任」ということを聞いて裏が見えてしまいました。裸の王様にとっては、いまさら裏も表もないという現実を自覚してほしいものだと思うのですが、このNHKの体質は一筋縄ではいかないもののようです。



  国会ドタバタ劇 2005/01/25(Tue.) 12:14 

衆議院本会議の代表質問の場で、野党第一党である民主党が自ら質問をしている最中に本会議を退席する、戦後初めてという異例の騒動がありました。

これは、小泉首相が民主党の質問に対して答弁した内容について、民主党・岡田代表が「不十分だ」として再質問したところ、首相が「全部答えている」という無内容なものだったので岡田氏が憤慨して退席したものです。

国会中継をテレビで見ていた多くの人は、答えをはぐらかす小泉首相の態度に少なからず不快感を持ったのではないかと思います。首相の答弁に対して、岡田氏がより具体的な内容に踏み込んで再質問をしているのに、「全部答えています」という答えでは全く答えになっていませんし、そういう答えで終わるのならばわざわざ国会を開いて審議する意味がありません。それどころか、小泉首相の答えはまるで裁判の尋問で不利なことを突かれて答えられなくなった時の「被告」の逃げ口上のようにも見えてしまいます。

もちろん首相の答弁といっても大半は頭のいい官僚たちが準備するのでしょうから、突然に岡田氏から9つもの質問を突きつけられると、とっさに適当な答弁の準備が間に合わず答えに窮するということはあるのでしょう。しかし、それならばそれなりに答え方があるというものです。いみじくも岡田氏が「首相の答弁は官僚の言葉だ。政治家としての意見を聞きたい」と述べたのは非常に的を得たものだったと言えるでしょう。

そういうド真剣な表情の岡田氏に対して、余裕を見せるパフォーマンスなのか、せせら笑うかのような首相の表情には何となく器のなさを感じてしまいます。黙るべき時は黙る。笑うべき時は笑うのがいいでしょう。しかし、全国民の前で堂々と審議するべき時は、日本という国家を率いる首相として誠実に答えねばなりません。

ところが、かくのごとく首相の答弁が批判を受ける性質のものであったとしても、岡田氏と民主党議員らが突然「切れた」かのごとく本会議場を退席する行動に出たのは、小泉首相の不誠実な答弁に対する不快感をはるかにしのぐほどに不快なものでした。

代表質問の最中に、質問している野党側が国会の会議をボイコットするのは戦後初めてのことらしいですが、自分の質問に対する答えが気に入らないからといって会議を退席するなど、私には言語道断のことのように思われます。
岡田氏は首相の答弁について「議会制民主主義を揺るがすもの」と言われましたが、「俺様の質問に答えないなら俺は出ていく」という不遜な岡田氏の態度こそ、まさに議会制民主主義を崩壊させるものだと言わねばなりません。

議長を務めていた河野氏は基本的に再質問を何度も許可する姿勢でしたし、民主党の質問は岡田氏で終わるのではなく小宮山氏の質問もあるのですから、その時にでも質問の形式を変えて追及することもできるのです。
また、もしも首相が答弁に窮してしまって苦し紛れの態度を示さざるを得なかったのだとすれば、それも野党の一種の実績と評価されるわけですから、長い目でみて次の戦いにつなげることも可能だったでしょう。
ともかく、その場で相手が気に入った答えをしないから退席する、これでは国会になりません。しかも、国会の会議は国民の莫大な税金が投入されています。官僚が税金を無駄づかいしていることは周知の事実ですが、官僚だけでなく政治家たちも税金の無駄な使い方はやめてほしいものです。

また、おかしかったのは民主党が退席する時にまるで金魚のフンのように社民党の人々も一緒に出ていったことです。同じ「野党」だからでしょうか。しかし、党には党のまとまりや考えがあるはずです。大切な本会議をボイコットするというような重大な行動について党の決議もなく、その場で簡単に「民主党に右へ習え」ができる社民党の腰の軽い体質も全く不思議なものです。それとも社民党は民主党の体の一部だという感じなのでしょうか。
社民党は福島瑞穂という左翼弁護士(夫はオウム真理教を破防法から守った左翼弁護士)が党首になってから全くおかしな体質になりました。退席せずに会議を重視した共産党が妙に大人っぽく見えてしまい、思わず笑ってしまいました。

河野議長は首相に対して「誠実に答えるよう」求めましたが、国民に利益が及ぶ実質的な実りのある議事を残そうとする議長としては至極当然の警告のように思えました。しかし、その言葉を取って「議長の言う通り、今回の騒動の責任はすべて首相にある」と勝手に断じた岡田氏の発言には無理があるでしょう。

私は小泉首相の総理大臣としての資質には一定の評価をしています。しかしながら、先日どこかで中曽根元首相が「小泉さんは各論ばかりで勝負して総論が全くない」というような批判をしておられましたが、確かに小泉首相の中には世界に向かう明確な国家理念が見あたらず、今の内閣にしても郵政民営化を「踏み絵」にして組閣したレベルの各論内閣にすぎません。小泉首相や竹中大臣は「小さな政府」を目指すと主張するのですが、「小さな政府」が「各論を扱う政府」という意味であるとすれば、それは全く本末転倒というべきでしょう。



  アマチュアの時代 2005/01/20(Thu.) 14:59 

もうお正月の話題は過ぎたかもしれませんが、NHK教育テレビで毎年恒例の「新春お好み囲碁対局」という特番を大変楽しく拝見しました。
「ヒカルの碁」という少年漫画の影響によって、日本の低年齢層に急速にアマチュア囲碁が普及しましたが、今年の囲碁対局を見て、アマチュアの平均的な実力もずいぶん向上したものだと感心させられました。

今年の特番は、囲碁のプロ棋士とアマチュアが対戦するという企画でした。もちろんアマチュアにはハンデが付けられていて、例えばプロは一手を10秒以内で打つのに対してアマチュアは30秒であり、棋力が低いアマチュア(4、5級レベル)には最初から好きな場所に3箇所の「置石」を許すというものでした。また、アマチュアには3回の「作戦タイム」を取ることが許されていて、その時には指南役としてプロ棋士の趙治勲25世本因坊の指導を受けることができる、というルールでした。

どの対局も楽しかったのですが、私が非常に驚いたことは、アマチュア4段の女子学生が黒番(先に打つ側)でプロ4段棋士と対等に(置石を置かずに)闘い、アマチュアが勝ってしまったことです。
もちろん、秒読みのハンデや「作戦タイム」のハンデはあったのですが、黒番としてもプロの相手に対して3目のコミ(あらかじめ決めたハンデとしての得点)を与えるという非常に厳しい条件のもとで、みごとにプロ棋士に勝ったのです。このことは、これまでのプロ・アマ囲碁界の常識からしても全く驚きの事態だと言わねばなりません。

通常の囲碁対局で使う碁盤は「19路盤」というもので、盤上に19×19の線が引かれていますが、今回の対局は「9路盤」という小さな盤面のものですから、確かに先に打ったほう(黒番)が絶対的に有利であるということはあるのですが、それにしてもアマチュアの4段そこそこの女子学生がプロ棋士に対して堂々とコミ(ハンデ)を与えながら勝ったということの持つ意味は大きいと思いました。時代の変化を感じる一局だったといえます。

今は、アマチュアでもプロに堂々と勝つ可能性を秘めた時代なのかもしれません。おそらく、アマチュアは仕事ではなく純粋に「好きだから」という理由だけで没頭するところが利点なのでしょう。

分野は違いますが、根っからの野球好きで知られるタレントの萩本欽一さんが正式に社会人野球の監督になるということで、最近そのチーム(ゴールデンゴールズ)の入団テストがあったことが報じられました。
そこには16歳から40歳までの男女約80人が参加していましたが、女子野球日本代表で熊本商高硬式野球部におられた片岡安祐美内野手(18歳)も参加したことで注目されました。今後の活躍を期待したいものです。
プロの世界はプロなりに熟練された見事な技もあるのでしょう。しかし、プロであるがゆえにいろいろと運営上の難しい問題があります。そんな風潮の中で、「好きだから」「楽しいから」「仲間が増えるから」という、全く純粋な動機で広がるアマチュアの世界の中に、単なる勝負を超えた貴重なものを多く発見する時代が来たのではないでしょうか。



  「民衆法廷」と新聞社の体質 2005/01/16(Sun.) 18:32 

同じ思想を持つ者たちが民間で「法廷」を作り、そこで自分たちの都合のいい「判決」を出す、いわゆる「人民裁判」というものがあります。群集が寄り集まって特定の人に対して「あいつを処刑しろ!」と騒ぎ、それなりの力のある人が判定を下す、というような場合は明らかに「人民裁判」であるといえます。

ところで、第二次大戦中の旧日本軍の責任者をいかに処罰すべきかを問う「女性国際戦犯法廷」というものがありますが、これは「人民裁判」であると非難されるべきものかどうか私には判断する能力がありません。一般には通常の法廷と混同されないように「民衆法廷」と呼ばれているようです。

しかしながら、この「民衆法廷」では昭和天皇も被告人とされており、自分たちの自由で「裕仁被告人」などと勝手に呼ぶわけですから、「被告人」は既に亡くなられた方であるにせよ、特定人の名誉を著しく毀損する行為がなされる「法廷」であると言うべきかもしれません。
いや、むしろ亡くなった方は基本的に自分の意思で反論する機会(抗弁権)が与えられませんので、「死人に口無し」という側面を大いに利用した侮辱的法廷であるとも言えるでしょう。

また、「民衆法廷」では被告人を代理する弁護人が付いていないということですから、これはもう近代法の精神を全く無視した人権侵害裁判の見本のようなものであり、一体いつの時代の裁判かという疑いすら持ってしまうものです。
更に、昔の法制度や社会規範の状況を無視して戦後生じた西欧の価値観で人を裁くことは、いわゆる「罪刑法定主義」(後に出来た法律でそれ以前の罪を裁いてはいけないという原則)に全く反するもので、法の精神に著しく反しています。確かに従軍慰安婦などの問題は真剣に考えねばならないことですが、こういう偏向した「裁判」によって裁くようなことをすれば、かえって正しい判断が出来なくなるのではないでしょうか。


数年前にNHKがこの民衆法廷を取材して放映したということですが、のちに再放送する時に作者の意図に反する「編集」がなされたということで、この団体からNHKが(現実の裁判で)訴えられているようです。その結果は、番組制作会社に損害賠償の支払いが命じられましたがNHK自体の責任は求められませんでした。

最近問題になっているのは、その番組の「編集」に当たって当時の安倍官房長官と中川経済産業大臣が「政治介入」(圧力的指導)をしたということをNHKの長井暁チーフ・プロデューサーという人が涙ながらに告発する会見を行なったことです。
NHKのプロデューサーといえば、巨額の受信料を使って飲み食いしたことで有名になりましたが、この長井さんという方も実におかしな人です。単なる伝聞にすぎないようなことを平気で述べ立てて特定の個人を糾弾するわけですから、この人にまともな人権感覚があるとは到底思えません。こういう人がプロデュースする番組の品質そのものに問題はないのでしょうか。
また、何の根拠もなく誹謗中傷された安倍氏や中川氏はたまったものではありません。実際、お二人とも事実に反すると述べ、NHK自体も「そういうことはなかった」と述べています。

この背景には、おそらく何者かによる深い画策があるのでしょう。ここではこれ以上論を進めることを控えますが、朝日新聞がやっきになって安倍氏や中川氏を糾弾する記事を書いていることについては、非常にきな臭いものを感じます。「やっぱり朝日ね」という感じです。

日本の歴史は、新聞社が国民の思想を操作し誤導してきた側面が大きく、歴史事実も新聞社によってねじ曲げられてきました。新聞社は剣よりも強いと言われる「ペンの力」を強力な武力として特定の人間の人権をいとも簡単に踏みにじってきたし、平気で嘘を書き、また多くの犯罪を隠蔽してきました。
昨年、小学1年生の女の子が殺害された事件で、その犯人は毎日新聞販売局の従業員でしたが、警察に嘘をついて彼の居場所を隠したのも毎日新聞の従業員でした。これは、新聞社の体質をそのまま象徴するような出来事だと思います。

とんでもない思想を持つ人々は多く存在しますが、「ペンの力」によってあたかもそれが正当な主張であるかのように巧妙に仕立て上げる新聞社の体質が糾弾され、根本的な部分で改善されない限り、日本に明るい将来はないと言うべきでしょう。



  発明対価 2005/01/13(Thu.) 16:59 

カリフォルニア大学の中村修二教授(電子工学)が日本の会社(日亜化学工業)に勤務していた時に発明した「青色発光ダイオード(LED)」の発明代価について支払いを求めた裁判で、東京高裁において和解が成立しました。

この裁判は、2004年1月30日に東京地裁が600億円の発明対価を認定した上で、原告(中村教授)の請求額(200億円)全額の支払いを命じる判決を出したのに対して、被告(日亜化学工業)が東京高裁に控訴していたものです。

中村教授の発明によって、携帯電話の液晶画面のバックライトなどが半永久的でしかも極めて微弱な電力で表示が可能になるなど、実にさまざまな所で活用されており、その市場価値は何兆円になるか測り知れないとも言われています。

実際、日亜化学工業の収益のほとんどはこの発明に頼っており、もともと年間百数十億円の売上規模だったものが中村教授の発明によって年間1000億円以上の売上になっているのですから、少なくとも中村教授の貢献度を数百億円以上のレベルで認めなければいけないことは明らかでしょう。しかも、その経済効果は一過性のものではなく、当然今後も更に続くということをも考慮しなければなりません。

第一審(東京地裁)の三村量一裁判長は、日亜化学が特許によって得た利益を約1208億円と認定し、それに対する中村教授の貢献度を50%として約604億円を会社が支払うべき発明対価とした上で、原告の請求額(200億円)の全額を認めたわけですが、裁判所が認定した会社の利益はあくまでも当面の利益であって、実際にはそれ以上に会社は利益を受けたというべきです。
それにしても、この三村裁判長の判断は高く評価すべきものであると私は思います。日本は知的財産に対する感覚がにぶく、いくら「発明立国」などと叫んでもむなしい面がありますが、三村裁判長の考えはそれを払拭して、日本に新しい国際的感覚をもたらす画期的なものだったと思います。

それに対して、東京高裁の佐藤久夫裁判長の考えは全く間違ったものであると私は思います。裁判所は被告の経営に多大な影響を与えないよう配慮してきわめて少額の和解を強く勧告したと言われていますが、佐藤裁判長はこの発明が現実にもたらした価値について判断を大幅に誤っているばかりか、これによって会社の収益が飛躍的に今も増え続けているという現状についても全く認識していません。

また、被告の日亜側は発明についての「リスク」面を第一審では無視された、ということを主張しているようですが、そもそも「発明対価」という概念は、その発明がプラス面でもたらした経済的な効果ということですから、会社がその発明を使用するに当たってのリスクなどのマイナス的な概念は含まれていないのです。
つまり、この発明が相当の利益をもたらしたにもかかわらず正当な対価が与えられなかったという趣旨の裁判ですから、この裁判自体の争点の基盤に「リスク」に関する事実認定は含まれないと解釈すべきだと私は思います。

また、会社のリスク(倒産など)は当然そこに勤務する社員たちも同様に背負っているわけですから、この裁判に限ってリスク云々を主張するのは筋違いであり、そういう会社の主張には必死で争点をそらす姿勢が見られるように思います。

プロ野球界などでも、貢献度の高い選手には何億円という年棒を与えることで評価します(もちろんリスクを伴っています)。日亜化学工業は、自分の会社を急成長させてくれた恩人のような社員である中村教授に対して、当時支払った代価はたったの2万円でした。「2万円」です。今回も8億円そこそこで済ませようということですから、そういう会社の考えに安易に同調した佐藤裁判長の考えも時代錯誤だと思いますが、会社自体もまだまだ前近代的・封建的な企業概念から一歩も出ていないように私には思われました。

日本は国土や資源に乏しいですが、優秀な学者や発明家は多数存在するものです。そう考えると、知的財産によって立国するという精神も今後の日本においては非常に大切になるでしょう。そして、何兆円ともいうべき規模の産業復興に貢献した中村教授に対してはそれ相応の対価が認められてしかるべきでしょう。そういう意欲的な学者や発明家たちが日本の封建的体制を嫌ってどんどん国外に離れていかないよう、頭の固い裁判官や企業人たちもよく考えてもらいたいものだと思います。



  島田紳助さんの事件をめぐる評価について 2005/01/09(Sun.) 23:32 

吉本興業のタレント・島田紳助さんが今年になってテレビ番組に復帰されました。昨年の事件があって自粛していたものですが、私はこの事件についてきわめて不可解なものを感じます。

事件は、紳助さんが吉本興業の社内で言葉づかいの横柄な女性を見た所から始まります。その女性(40歳)は「タメぐち」を使って会社の取締役を呼び捨てにするなど横柄な態度だったので、吉本興業という会社の為に一筋で生きてきた紳助さんは思い余って注意をしようとした所、話しているうちにその女性がもう4〜5年も勤務している身内の社員であることがわかり、ついカッとなって手を出して叩いてしまったとのことでした。

私は関西で育ちましたし、吉本新喜劇もよく見ていました。そして、吉本という会社は社員同士が家族的な人間関係で結ばれていて、上司が部下の家庭の事情や人生相談などについて面倒をみることもめずらしくないことを知っていましたので、今回の事件のようにスキンシップが暴力に昂じたようなトラブルも確かにありうるだろうな、という感想を持ちました。

ただ、いくら紳助さんが会社を愛するがゆえにカッとなったとはいえ、暴力をふるうというのは言語道断であり、絶対にいけないことです。
紳助さんはきわめて純情な人であり、そういうことに無分別な人ではありません。会社を愛する気持ちも純粋でしたが、暴力をふるってしまったことに対する反省の気持ちも同様に純粋でした。テレビの記者会見で、暴力については「100%自分のほうが悪かった」と言って涙ながらに全面的な謝罪をしたのです。
また、刑事事件にもなりましたので、紳助さんは素直に応じて所定の(略式裁判の)罰金を支払って刑事責任を全うしました。その上、しばらくの期間はテレビ出演を自粛するという、芸能人としてはかなりの社会的制裁も受け入れました。

ところが、私が非常に不可解に思うのは、この女性(およびその弁護士)は紳助さんが芸能界を「引退」するよう要求しているということです。謝罪をして刑事罰も受け、自粛期間も設けて謹慎した者に対して、それ以上何をしろというのでしょうか。

慰謝料などを請求するのであれば民事裁判を起こして、自分の気の済むような金額を(裁判所が認めるかどうかは別として)請求すれば良いことであるし、会社の使用人としての監督責任を追及するのなら会社を訴えればいいでしょう。
しかし、いくら相手が悪いからといって相手の職業を放棄させる権利や、芸能界から引退せよ、などという主張が成り立たないことは余りにも明白です。極端な例を言えば犯罪を犯したオウムの信者に対してさえ、その職業を奪う権利など誰にもないのです。この弁護士は一体何を考えているのかしら、と率直に思いました。

また、紳助さんのテレビ番組への復帰が「早すぎる」というようなことも主張しているようですが、それは紳助さんを雇用している吉本興業が決めることです。この女性も一応は吉本の社員であるのならば、会社の決定に従う義務すらあると言わねばなりません。そう考えると、この女性がますます何を考えているのか分からなくなります。


もちろん私は暴力に対しては絶対反対です。しかし、この事件をめぐる両者のやり取りを見る限り、紳助さんのほうに同情心がどんどん沸いてしまうことを、どうすることも出来ません。

紳助さんはこの女性のヒステリックな対応によって、以前のような活気ある番組の司会をする自信がなくなったと言っており、「訴える」という言葉を聞いただけで萎縮してしまうという精神的後遺症があると言われます。あの真剣な表情からすると、紳助さん自身も相当の精神的ショックを受けているのでしょう。タレントにとっては仕事に大きく影響する損害だと言えます。

何度も強調しますが、暴力はいけません。しかし「女は弱い」ということを逆に女の武器にして感情に訴え、正当な主張とは到底言えない内容までも強引に押し通そうとする行為に関しては、マスコミも世論もこれを簡単に(雰囲気に流されて)認めてはいけないように私は思います。世論が紳助さんに対して冷たい状況であるからこそ、私はあえて紳助さんの立場に立つことも重要である、と言いたいのです。

吉本興業の林裕章会長は1月3日に逝去されましたが、亡くなる直前まで紳助さんのことを心配し、他の人に「紳助を頼む」と言っておられたとのことです。会社のトップからこれほどに信頼され期待されていた紳助さんが、この逆境を何とか越えていかれることを望みたいと思います。




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