一連の話の流れですが、故金日成主席の主体思想の中で、私が「単なる唯物論以上のもの」として評価する部分について、もう少し具体的に指摘しておきます。
まず第一に、マルクスの唯物論においては社会発展の動きとして(生産力と生産関係の矛盾とその止揚を繰り返すことで)歴史は必然的に共産主義になる、という歴史必然論=唯物史観が説かれており、これは多くの学者によって批判されてきた考えであることは周知の事実です(有名な所では津田左右吉博士の唯物史観批判書「必然・偶然・自由」1950、角川新書など)。
ところが、そういう歴史必然論に対して金日成の主体思想では「人間をたんなる世界の一部分としてではなく、世界を支配する主人にすることによって、従来と異なり世界の主人である人間を中心に、世界とその変化発展に対応する新しい世界観を確立」したということ、そして「唯物論者たちも、人間を中心にして世界にたいする観点と立場を示すことはできませんでした」ということが述べられ、マルクス唯物論との相違が明確にされています(金正日「チュチェ思想について」1982、134頁)。
すなわち、主体思想では人間を単なる唯物的な物質とはみなさず(単に唯物史観的な歴史の必然性に服従する存在ではなく)、自主性・創造性・意識性(これらを主体思想では「三大属性」と呼びますが)を有する世界で唯一の存在であると説かれているのです。
主体思想研究家の井上周八博士(立教大名誉教授)は「唯物弁証法的世界観は、時代的制約もあって、まだ、自然と社会の支配者、改造者、世界の主人としての人間の本質を明らかにすることができず、したがって人間中心の世界観にまでは到達することができなかった」と解説しておられます(井上周八「解説チュチェ思想」1992、25頁)。
そうなると、単なる唯物論とは違って、主体思想の場合は世界に人類が存在するか否かによって決定的に世界観の意味が変わってきます。井上博士は「人類の出現によって世界は根本的に変化した」、「人間社会の出現により、世界は人間によって支配され改造される世界となったのであり、(中略)人間は、あらゆるものの主人としての地位をしめ、世界を改造変革する役割を果たすこととなったのである」(井上前掲書、93頁)とも述べていますので、主体思想が従来の唯物史観とは決定的に異なることは明らかであり、これは全ての万物を治める者として人間が創造されたとする聖書的な世界観・歴史観にも通じるとさえ評価できるのではないかと私は考えます。
このことは、主体思想が「霊」という言葉を使わないものの、人間というものを単なる物質次元を超えるものとみなしている証拠であり、更に唯物史観が陥った歴史必然論をも克服している面があるとも言えるのではないでしょうか。もっと言えば、キリスト教における予定説的な一種の歴史必然論をも超える可能性を秘めた側面があると思われるのです。
ただ、やはり主体思想は「無神論」であるため、人間が主体の思想ということですから、そこから絶対的な価値観を導出することはできず、壁にぶつかってしまうのです。国家論などにおいてもどうしても人間による独裁体制に陥らざるを得なかった、ということです。そして、今日の北朝鮮の悲劇的な結末になったのです。
ちなみに、統一原理による歴史観(統一史観)においては、歴史における人間の決定的な役割を認めています。しかし、創造主としての神と、神の子としての人間が親子の関係を復帰する一連の流れ(復帰摂理歴史)として歴史の全体像がとらえられ、そこに神と人間が摂理歴史において責任を分担しているという発見による詳細な歴史観が展開されています。 私は、北朝鮮が無神論の過ちに気づき、神を中心とする神主義(ゴッディズム)の思想に目覚めていただいて、あまりにも多くの犠牲者を出した歴史から解放されることを強く願うものです。
北朝鮮の思想についての評価は、単なる感情論に走ることなく、積極的に評価すべきは評価する、また間違いは間違いとする、という是々非々の立場をとることが重要ではないでしょうか。 そういう、お互いの思想の相違についての細かい検討作業を欠いてしまっては、真実に心の通った友好関係を確立することは困難なのではないかと私は考えています。 |