現在 15件/1ページ 
20105

HomePage

江本武忠
(えもと・むちゅう)

(2004/09/29(Wed.) 21:48 〜 2004/07/08(Thu.) 14:02)

  1000円の床屋 2004/09/29(Wed.) 21:48 

今日、仕事の合間に床屋さんに行きました。長年行きなれていた理容店が不況で閉鎖になったので困ってしまい、「とりあえず」と思って利用したその店が結構便利だということがわかって、それ以来何回か利用しています。

まず、その店は料金が1000円と決まっているので安くて分かり易い。料金は先払い、というか千円札でチケットを買ってそれを店員に渡すので、店員が直接お金を触らない点も清潔感があります。

しかも、値段が安いだけに基本的に10分ぐらいで仕上げてくれるので、忙しい人にとっては好都合です。普通、床屋さんは洗髪やひげ剃りもしてくれますが、洗髪やひげ剃りは自分の家でできるわけですから、むしろそれを省いて料金を安くしたり時間を短縮してくれるほうが合理的で、よく考えたもんだなあと思いました。

また、サービスで気が付いた点としては、今まで通っていた理容店では自分が髪を切ってもらっている間、自分の荷物のことが気になることもあったのですが、そこの店はそれぞれのお客が座る台の前にちゃんと荷物入れがあって、そこに収めておくので心配しなくてもいい。

今の時代、不況には不況にふさわしいサービスがあるもんだなあと感心した次第です。もちろん手の込んだ理容に対する需要もまだまだあるとは思いますが、一方ではこのように余計な作業を省いて、理容そのものが町の「くつみがき」程度の軽いものに変化してきたことも、時代の流れなのでしょう。

そして、何回かその店を利用しているうちに、大きな資本をかけて高い機材と多くのスタッフを導入し、一回の理髪に長い時間をかけるやり方をしていた理容店が閉鎖してしまった理由もよく分かるような気がしました。



  宅間死刑囚の死刑執行と法制度 2004/09/18(Sat.) 12:21 

大阪教育大付属池田小学校で8人の児童を殺害した宅間守死刑囚に対する死刑が今月14日に執行され、死刑確定から1年以内の執行という異例の早期執行にさまざまな意見が出ています。

死刑判決の確定後、宅間死刑囚本人が「3か月以内の執行を望む」と強く要求したことや、遺族らも早期の執行を願ったことが執行を早めた原因であることは間違いないにしても、法の定めとはいえ人の生命を強制的に奪う死刑制度について改めて考えさせられる問題です。

統一原理(統一教会の教義)では霊界の存在を認め、死後は肉身が土に帰って霊界に旅立つものとされますが、地上で成長した心の度合いに応じた霊界に行くと言われており、その最高の場が天国です。
また、もしも地上で罪を犯した場合はあくまでも地上で償わなければならないという原則が説かれます。しかし、罪を償わないまま霊界に行ってしまった場合、地上にいる人に対して何らかの善なる協助をすることで償うという形になり、それがとても容易なことではないので、そういう意味でも地上にいる間の生活が非常に大切であると言われています。

地上で心を成長させること、愛を育むことが本人にとって大切だという観点からすれば、いくら宅間死刑囚のように殺人行為を行なった人でも、わずかでも改心する可能性が残されている限り、死刑によって生命を奪うことは避けねばならないということになります。

しかしながら、個人のレベルを超えて日本全体、世界全体のレベルで物事を見た場合、実に多くの人々が理不尽な形で飢えや病気、貧困などで亡くなっており、それらの人々に対する保障は全く乏しいと言わねばなりません。そういう弱い立場の人々や必死で生きようとしている善良な人々を国が助けずに、8人もの人を殺した死刑囚を国のお金を使って生かしておくのは不合理だ、という見解も出てきます。

そう考えると、個人同士の生命には重い・軽いの差はないけれども、人類というものが個人ではなく「類的存在」であり共同体を持って生きるしかない存在であり、その共同体が神が支配するような完全なものでない以上、個人の生命を左右するほどの刑罰もやむを得ない過渡的段階にある、ということなのかもしれません。

過渡的段階というのは復帰途上ということです。統一原理では人類の歴史は「神の救いの歴史」であると解釈されます。その救いがまだ成就していない復帰途上の段階においては、一見して不合理に思えるような法制度もやむを得ない場合があると言えるのではないかと思います。

実は2000年前、ユダヤに生まれた主イエスも死刑囚となり、信じ難いほどの早期執行がなされたのですが、イエスには何の罪もありませんでした。しかし、イエスは自らの十字架の道を超えることによって全人類に心の救いをもたらしました。人間は過ちを犯しますが、神の摂理はそれを超えて成就するもののようです。

そして、キリストの福音が全人類に普及して、全ての人々の心が神を中心に生きる時がくれば、殺人もなくなって当然死刑も不要になるのでしょう。しかし、今はまだ主の福音が完全には成就してはいないということ、いわば人類歴史はまだ復帰途上にあって、それらの諸問題を解決するための新時代にふさわしい真理が求められている、そしてその真理が具体的に顕現されねばならない時が今である、ということではないかと思います。



  NHK不正事件を放映した東京MXテレビ 2004/09/13(Mon.) 00:14 

NHKの受信料を内部の者が着服していた事件でNHKの海老沢会長が国会に招致されましたが、その質疑の様子をNHK自体が同時中継で放映しなかったということで各方面から非難が浴びせられています。

それと同時に、NHKに代わって中継をした東京MXテレビには多くの激励の電話などが寄せられているとのことです。私は東京に住んでいる関係もあって、東京MXテレビを見る機会も多いのですが、このテレビ局は立ち上げの頃から非常に苦労も多く、何度も廃止の危機に襲われました。

なにしろ東京MXテレビには確たるスポンサーもなく、立ち上げた人々も特別に番組作成の専門家というわけでもなかったようで、初期の頃は「何と素人っぽい番組の作り方なんだろうか」と、素人の私がそう思うほどの内容でした。しかし、私はこのテレビ局に対しては何か初々しい一種の愛着を感じていました。それは、マスコミ業界にありがちな営利主義に傾くことなく、東京の街を一生懸命に良くしたいという非常に純粋な動機が流れているように感じられたからです。

もちろん予算的に赤字丸出しのテレビ局ですから、以前の青島都知事などは「そんな無駄なテレビ局は必要ない」と言って一挙につぶす方向にあったのですが、石原都知事になって全く風向きが逆になりました。石原都知事は東京MXテレビを非常に有効に活用し、都議会の生中継に使用したり、都政の内容について都民の声を反映させたり都知事自らが出演して議論するなど、最大限に利用するようになったのです。

特に、都議会の模様や都知事の定例記者会見をテレビ中継でいつも見ることが出来ることは、都民にとって大変貴重なものです。都知事が今どういうことを考えて、何をしようとしているのかということが全てオープンで、非常に正確に伝わってくるからです。

今回の放映の件はともかくとして、テレビの持つ良さも恐ろしさも心得た石原都知事の施政にあってはじめて価値を発揮できたテレビ局が東京MXテレビなのだ、ということを改めて感じさせられました。

テレビ局は国民の言論を大きく左右する立場にありますから、あまりにも巨大化すると一種の権力者のようになり、次第に傲慢な意識を帯びてきます。今回の不正事件は恐らく氷山の一角なのでしょう。最も巨大化して悪の巣窟と化したNHKと、まさに吹けば飛ぶような(と言っては失礼ですが)東京MXテレビの実に対照的な取り合わせは、「我々にとってテレビとは一体何なのか」ということを大いに考えさせてくれるように思います。



  テロ事件解決の道はあるか 2004/09/09(Thu.) 00:07 

ロシア・北オセチアの学校占拠テロ事件は、死者が400人を超えるかもしれないという最悪の事態となりました。しかも犠牲者の大半は幼い子供たちです。なぜこんなことが起きるのでしょう。卑劣なテロは絶対に許さない、という単純な考えだけではどうも解決の糸口は見出せないようにも思われます。

もともと、ロシア(旧ソビエト連邦)は人類史上初めて共産主義・唯物論によって建てられた国家でした。そして、大きな国土と多数の共和国を統治するために暴力と思想弾圧による政治が行なわれましたが、その最高の独裁権力者がスターリンでした。彼が殺害した人民は数百万人とも言われています。
ソ連から独立しようとする者たちは皆殺しにされ、今回の事件で問題になっているチェチェンの多くの人々を無残な形で追放したのもスターリンだったのです。そういうおびただしい数の犠牲の血の上に成り立った国がロシアであったという歴史的事情を抜きにして今回のテロ事件を考えることはできません。

やがて、共産主義が間違いであることがわかる時代が到来し、ソ連にもゴルバチョフという天才的政治家が現われました。彼はソ連を崩壊させ、新しいロシアの時代を切り開きました。しかし、それと同時に、チェチェン共和国を始めとして、それまで虐げられてきた多くの共和国が再び独立を叫ぶようになったのは当然のことですが、必ずしもその対応は改革の流れに沿うものではなかったと言わねばなりません。

エリツィン大統領も、プーチン大統領も程度の差はあっても(私の個人的な印象ですが)基本的には過去のスターリン的な抑圧政治のやり方をそのまま継承しているように見えます。ロシアは共産主義という思想は捨てましたが、権力で押える政治という手法は全く変わっていません。既にロシアは今回の事件に触発され、イスラム過激派テロ地域への「先制攻撃」をするという宣言を始めたようです。大きな範囲の戦争に発展する可能性は十分あります。

私は今回の事件に、スターリンの亡霊とそれに対する怨念の現象化を見る思いがします。「米ソ」という2極の和平については一つの壁を超えたとはいえ、イスラムといういわば第3の宗教勢力に対しては解決の糸口すらない状況だと言えるでしょう。
ここに私たちは人類の精神的な歴史をさかのぼる必要性を痛感するのではないでしょうか。イスラム教はユダヤ教から出たものです。ロシア人の精神基盤であるロシア正教(ギリシャ正教)は、ある意味ではキリスト教以上にイエスの教えの本質に迫るもので、かえってユダヤの秘儀に至る道が開けていると見ることもできると思います。そして、人類が共有する最古の教え「旧約聖書」の秘儀を解き明かす鍵を見つけた時、そこに初めて全ての困難な問題を解決する糸口が見つかるのではないでしょうか。

力で抑えることには限界があります。真実の平和、戦争やテロが起こるべくもない、人類の心の絆が家族のように一つになる世界平和の道は、国家の利害関係を超えて人類の心のふるさとを求め、お互いにその精神的・究極的なルーツを真剣に問うことなしにはあり得ないのではないでしょうか。



  室伏選手の功績 2004/08/31(Tue.) 14:42 

審判の判定ミスなど、いろいろ波乱に富んだアテネオリンピックでしたが、オリンピックの最後の花形であるマラソンのトップランナー妨害事件によって、最後まで波乱で終わったという印象の強い大会となりました。妨害した人は自称・元司祭で「キリストの再臨」の準備のために行なったと言っているらしいですが、何を準備しようとしたのでしょうか(笑)。

波乱の一つである薬物使用違反(ドーピング)の件では、ハンマー投げで金メダルを取ったハンガリーのアヌシュ選手が失格となり、銀メダルだった室伏選手がその繰り上げで金メダルに輝きました。室伏選手は「台上で金メダルを受けたかった」と言われましたが、そりゃそうでしょう。オリンピック選手としては君が代・日の丸で表彰されたかったに違いありません。

オリンピック委員会がアヌシュ選手の疑惑調査に真剣に取り組んだのは、銀メダルの表彰を受けた室伏選手自身がアヌシュ選手のドーピング検査の様子について疑問を唱えたことが大きな要因だったようです。わずか28センチの差で金メダルを逃した室伏選手としては、それがもしも薬物の不正使用によるものだとしたら悔やんでも悔やみ切れないことだったでしょう。

記者会見で、室伏選手はメダルの裏に書かれている言葉を書き写した紙を報道陣に配りました。そこには「真実の母オリンピアよ あなたの子供達が 競技で勝利を勝ち得た時 永遠の栄誉(黄金)をあたえよ それを証明できるのは 真実の母オリンピア」と書かれていました。

そう、金メダルそのものが重要なのではなく、その記録が不正のない「真実の母」によって証明されたものであるという事実こそが、全人類の祭典であるオリンピックの真骨頂です。室伏選手はメダルをもってオリンピック精神の原点を示そうとしました。これは大きな精神的功績です。オリンピックにかけた、いや「真実」の記録にかけた室伏選手の勇敢な闘いに心底から拍手を贈りたいと思います。
そして、日本の選手がそういう立派な精神でオリンピックに臨んでいるということを世界に知らしめたこと、それもまた室伏選手の大きな功績として評価されるものだと思います。



  信じ難い判定 2004/08/27(Fri.) 17:46 

オリンピックの男子レスリングで最悪の判定が出ました。笹本睦選手とブルガリアのナザリャン選手の試合で、主審が相手の反則によって笹本選手に2ポイントを入れようとしたのですが、副審たちがビデオを見ながら全く逆の判定で相手に2ポイントを入れました。

これについて、サンケイスポーツなどはハッキリと「誤審」という表現を使っていますが、日本レスリング協会会長の福田富昭さんが「あれが反則でないと言うのならレスリングにならない」と評しておられたように、実質的に誤審だと言うべき判定なのでしょう。

競技場に置かれたビデオは一つの方向からしか映していませんから、相手の反則行為が死角になっていて見えなかったというのが誤審のカラクリでした。しかし、全世界の人々が見ているテレビ放送などでは何度見ても笹本選手の腰から足にかけて相手が手で妨害している姿がはっきり映っており、典型的な反則の見本のようなものです。

この科学が進歩した時代、一つの方向からしか映さないビデオをかたくなに信じて強引に主審の判定をくつがえすオリンピックというのはいかがなものか。。。
日本の相撲でも、「物言い」がついた時は四方面からの審判に確認を求めた上でビデオ録画を参考にして判定します。今回の審判たちに対しては、思わず「今は古代ギリシャ時代ではなく、地球が丸いことが分かっているのですよ」と言いたくなってしまいます。

う〜む。。。これこそ古代アテネオリンピックの復活現象なのか。笑。



  審判員のモラル向上を望む 2004/08/25(Wed.) 00:33 

アテネオリンピックは例年に比べて日本人のメダル獲得も多く復興していますが、必ずしも良き審判には恵まれていないようです。
女子レスリングの浜口京子選手の試合の時、スコアの表示が最後のほうで変更(修正)されたため、浜口選手は試合終了まで得点を勘違いしていました。選手は自分と相手のポイントを掲示板の表示で確認して攻防を練りながら戦うわけですから、その表示が間違っていたらたまったもんじゃないです。何のための表示か分からない。浜口選手の父親は激怒しておられましたが無理もないと言うべきでしょう。

同じ女子レスリングの伊調千春選手の試合の時も、(私の個人的な印象ですが)審判の判定は大変おかしいものでした。明らかに伊調が相手のうしろに回わり込んでポイントが入ってもいい状態なのに得点にならなかったのも変だなあと思いましたが、両者が同点であったのだから、どう見ても終始攻め込んでいた伊調の側が優勢であると判断されるはずなのに、すんなり相手を勝たせてしまいました。相手としても勝ったのは意外だったのでしょう。尋常でない驚き方をしていました。
もちろんスポーツですから審判の判定が絶対ですが、判定の根拠が常識的に考えても説明がつかないというのでは困ったものです。

競泳男子200メートル背泳ぎ決勝では、アメリカのピアソル選手が1着になったあとすぐに泳法違反(150mのターンの前にうつぶせになったあと禁止されているバタ足を打った)で失格になりましたが、「手続きの不備」などで失格は取り消されて再び優勝が認められました。
これも変な感じです。「手続きの不備」といっても報告書が国際水連の公用語である英語かフランス語で書かれていなかったから、というような理由だったのですが、そんな外面的なことよりも選手が明らかなルール違反をしたかどうかという事実認定のほうが重要に決まっていますし、ビデオで確認すれば判定は十分できます。

また、男子の体操では韓国の選手の採点に重大なミスがあり、韓国は「金メダルを返せ!」と騒いでいますし(スポーツ仲裁裁判所に調停を申し入れるとのこと)、鉄棒の競技においてはロシアのネモフ選手が非常に難しい離れ業を6回も連続して見事に演技したにもかかわらず得点が低かったので観客がブーイングをしたところ、その勢いに押されて得点がアップして表示されました。観客のブーイングで得点が変更するとは。。。これこそ前代未聞です。

審判の判定を絶対視しなければ公平なスポーツは成り立たない、それはよく分かります。しかし、それだからこそ、審判自身の技術やモラルというものも強く問われなければならないのだと思います。
審判さえしっかり(というか普通に)役目をこなしてくれていれば金メダルだったかもしれない、というケースを考えると実に残念な気がします。それにしても、こんなにヘタくそな審判が集まったオリンピックもめずらしいのではないかと思います。



  「柔」の精神 2004/08/19(Thu.) 12:17 

今回のオリンピックは日本柔道の活躍が目立っています。日本の金メダルは現在8個ですが、その内の5個は柔道です。銀は3個ですが、その内の2個が柔道です。オリンピックの発祥の地アテネで、日本の国技が大活躍する姿は実に頼もしい限りです。

柔道の「柔」は「柔よく剛を制す(柔能制剛)」という精神が込められていると言われています。「ヤワラちゃん」こと谷亮子選手は146cmの小柄で、しかも手足を損傷して痛々しいテーピングをしながらも、相手の力を利用して(借りて)大きな者を投げ飛ばす「柔」の精神をみごとに見せてくれました。また、夫婦で一生懸命頑張っている姿にも本当に暖かいものを感じます。

日本柔道の神様と言われた三船久蔵十段は、「柔よく剛を制す」の極地とも言うべき「空気投げ」という技を体現されました。三船十段は159cm、55kgという小柄でありながら、何百回という試合で「生涯無敗」であったばかりか、決して自分を高ぶることなく、稽古においても相手が熟練した柔道家であろうが柔道を始めたばかりの小学生であろうが何の区別もなく自ら直接相手をして熱心に指導されたということです。

日本という国は国土も狭く、資源も豊富ではありません。他の国の力を借りなければ1億2千万人の国民は存続できないと言っても良いでしょう。日本文化に流れる「柔」の精神とはいかにあるべきなのか、世界において日本はどういう身のこなし方をすればよいのか、アテネにおける柔道の活躍から日本自身が大きく学ぶことが出来るとすれば、それこそが大きな成果であると言えるでしょう。



  「小学6年生」、付録はもっとひどかった? 2004/08/15(Sun.) 17:36 

アダルトサイトにつながるホームページを紹介していた「小学6年生」ですが、実はその「付録」にはもっとすごい内容があったということでした。子供の学習雑誌については基本的に信頼感があるので、付録の内容までいちいち立ち入って点検することもないでしょうけれど、今回の事件をきっかけに内容を改めて読んだ主婦たちから驚きや抗議の声が出ているとのことです。[Click Here!]

「小学6年生」の付録によると、イラスト図解の性器や性行為の説明があり、しかもセックスをするのに相手のことを「好きとか嫌いとか関係ない」とか、同性愛についてもまるで奨励するかのような書き方になっている。これでは「小学6年生」は学習雑誌ではなく、子供たちを同性愛や愛情を無視した性行為に導く有害図書だと言わなきゃいけなくなってきます。

この現象は、明らかに子供の“学習雑誌”自体がジェンダーフリーの家庭崩壊思想に毒されていることを意味するものでしょう。批判力のある成人が読む雑誌ならばともかく、小学生が読む学習雑誌にこういう家庭破壊的な思想が混入していると、読む者はそれを無批判に受け入れてしまいます。

「性」は「愛」という目的を成就するための手段だと思います。目的を無視すれば手段だけが不節操に一人歩きしてしまいます。愛を無視した性の自由を強調するジェンダーフリー的な思想が低年齢に浸透した過程と、異常な犯罪が低年齢化した過程は一致するのではないかと私は思うのですが、この恐るべき家庭崩壊・国家崩壊思想そのものにメスを入れない限り、病める日本文化の根本的な癒しはないと言わねばなりません。



  アテネオリンピックに思う 2004/08/14(Sat.) 20:09 

オリンピック発祥の地であるギリシャで、108年ぶりに開催されるアテネオリンピック。その開会式の模様は、人類史のパノラマを見るような鮮やかなものでした。

ギリシャはオリンピックという体育競技の発祥の地であると同時に、ピタゴラス、ソクラテス、プラトンを始めとする数学や哲学の原点を築いた地でもあります。そういう意味で、今回のオリンピックは人類全体が文化と体育の原点に再び立ち返るような意味が強いのでしょう。

人類は、いまだに恐るべき戦争を続けています。エイズの脅威からも解放されていません。森林破壊、オゾン層破壊などによる環境危機も緊迫しています。そういう状況の中で、人類の知性のふるさと、知的遺産の国家とも言うべきギリシャにおいて、全人類が自らの歴史をふりかえり、人類が本当に求めてきた知恵とは一体何だったのかを思索することは、どれほど素晴らしいことでしょうか。

日本が東京オリンピックを契機に一挙に国際化が進んだように、オリンピックはその国の文化や歴史に覚醒をもたらすもののようです。それは、全世界の人々がオリンピックを通してその国がたどった歴史を慰労し、称えるからなのかもしれません。アテネオリンピックの開会式を通して、人類がたどった壮大な知性の歴史を共に称え、真実の平和を求めようとする人類の姿を見る思いがしました。



  「ジェンダーフリー」という唯物思想 2004/08/13(Fri.) 10:23 

「ジェンダーフリー」という定義の不明確な言葉が、政府の進める「男女共同参画社会推進」と混同されていることがよくあります。ジェンダー(性差による種別)を撤廃して、オカマもホモレスも何でもありの社会にしましょうというのが「ジェンダーフリー」の思想であって、政府が進める方針とは何の関係もありません。

昨日(8月12日)、東京都教育委員会は「ジェンダーフリー」という用語を教育現場から排除することを決めました。[Click Here!] これは実に賢明な対処だったと思います。「ジェンダーフリー」という、いわゆる横文字の聞こえのいい用語に惑わされて、それがまともな家庭を崩壊させる危険思想であることに気づかないまま、用語が一人歩きすることは危険思想家たちの巧妙な戦術にはまってしまう恐れがあるからです。

ジェンダーフリー思想によると、男女の差をなくすために名簿も男女の区別を無視した「混合名簿」を使用し、小学生のランドセルの色も男女同じものを使用するなど、いわゆる「男らしさ・女らしさ」を徹底的になくしてしまおう、という教育が進められます。

左翼思想を持つ人々が進める性教育にも、ジェンダーフリー思想が流れています。小学2年生ぐらいで男女の性器について細かい名称を教え込み、性行為や避妊の仕方まで載っている教材を配布し、男同士・女同士が結婚してもいいのだ、という家庭崩壊思想を刷り込みます。

まだ自我というものが明確になっていない時期に、そういう家庭崩壊思想を刷り込まれると、それを自力で変えようとすることは難しくなります。小学生にとって担任教師の影響はきわめて強いものがあります。「教育現場」という便利な密室洗脳機関を使って自分たちの唯物思想を植え付けてしまおう、というのが彼らの早期性教育の考え方ですが、戦後ずっと日教組が牛耳ってきた教育現場には「ジェンダーフリー」という名の恐るべき家庭崩壊・国家崩壊思想が蔓延していると言わねばなりません。

ちなみに、キリスト教は「男らしさ・女らしさ」を否定するジェンダーフリー思想には全く反対です。それは、例えばマザー・テレサのメッセージなどにもよく現われています。[Click Here!]



  「小学6年生」にアダルトサイト案内情報? 2004/08/10(Tue.) 11:36 

暑い日が続きます。
サーバの変更に伴い、いろいろ不具合も生じてしまいました。かなり修復しましたが、まだ完全ではない部分もありますので、ひとつよろしくお願い申し上げます。

小学館が長期的に発行している学習雑誌(かな?)「小学6年生」の中でアダルトサイトに飛ぶようなホームページの紹介があったということで、書店の店頭から回収作業がなされているとのこと。小学館は「週刊ポスト」がヘアヌード路線に走った頃からおかしくなったと思いますが、それはさておき、今回の出来事はネット文化が低年齢化すると共に起こるべくして起きた問題という気もします。一部の主婦たちの指摘でわかったということなので、指摘がないまま放任されているケースもあるのでしょう。

この種の学習雑誌は、小学生が自分でお金を出して書店に買いに行くというよりは、親が保護者名義で定期購読を申し込んでいることも多いと思いますので、いくら書店の店頭から回収しても情報が出回るのを食い止めるということは不可能に近いと言えます。好奇心が旺盛で、しかも友人同士の交流が親密な小学生においてはかえって逆効果になる可能性すらあります。

そもそもインターネットは老若男女が入り乱れた情報網であるばかりか、そこには国境すらもなく、アドレスさえ分かればどんな危険なサイトでも誰でも見る可能性があります。
また、パソコンという道具を使用することもあって、インターネットはTYゲーム世代の低年齢の間に一挙に普及しました。中学生がハッカーとなってサイバー攻撃をする時代です。問題は、いまや教育者や親などが追いつかないほどに小中学生のほうがインターネットに詳しくなったということであり、そういう知識の逆転現象ともいうべき問題をいかに考えるかという問題を抜きにして単なる教育論を展開することは、双方の世代にとって不幸なことです。

今後ますますインターネットは低年齢化するでしょう。しかも、その影響が深い精神面において大きいというインターネットの特質は非常に重要なことです。もはや、「見るな」「近寄るな」というような表面的な対策では間に合わない状況になっていることを感じさせられます。
インターネットが内面に与える影響が強ければ強いほど、より強く人間の内面を刷新して真実に至らせてくれるもの、そういうものを見つけることこそが現実の急務であることを、今の社会現象が示していると言えるのではないでしょうか。



  2億円の義援金 2004/07/28(Wed.) 10:31 

福井県の集中豪雨で被害を受けた人々に対する見舞金として、2億円の宝くじ当選券を贈られた匿名の方がおられましたが、その高貴な精神に心が洗われる思いがしました。

一体、このお金がどのように使われるかということについて多くの人が関心を寄せていまたが、結局他の義援金と合わせて被災者1万4479世帯に一律2万円の見舞金を支給する形で使われることとなり、それもまた有意義な案だと思いました。

もちろん、2億円といっても一律に分配してしまうとわずかな金額になるため、もっと別の形で使用するほうがいいのではないかという意見も出ていますし、そういう考えにも説得力があるのでしょう。しかし、それを敢えて一律に支給することを決めた県の方針の中にはお金には換え難い温かい心遣いが感じられます。

家を失い仕事を失った被災者にとって、もちろんお金は必要ですが、もっと必要なものは同じ国に生きる人間として助け合いたいという温かい心情の働きかけであろうと思います。
2万円自体は大金とは言えないかもしれませんが、被災者一人一人の心に大きな力を与えるものだと思います。そのお金は被災者の数だけ形を変えていくのでしょうけれど、そのような形で義援金を送られた匿名氏の心が千変万化して多くの人々の心の中にしっかりと残り、永遠に人の心の温かさを感じることの出来る道を選んだ福井県の判断は、復旧の見通しも立たない悲惨な被災の現場においてなし得た最善の選択だったのだと思います。



  女子高生コンクリート詰め殺人事件 2004/07/13(Tue.) 23:09 

先月、埼玉県八潮市で監禁・傷害事件があり、犯人は東京地検により起訴されましたが、産経新聞によるとこの犯人(神作譲被告人)は1988年に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件のサブリーダー格の男であるという。[Click Here!]
少年犯罪が多発する昨今ですが、この事例のように一度は法の裁きを受けて反省の機会が与えられてもまた同様の犯罪を犯してしまうのはなぜなのでしょうか。

特に、コンクリート殺人事件はあまりにも冷酷な事件でした。[Click Here!]思うに、人間がこういう冷酷な行為を平然となしうるのは、それ相当の思想、すなわち「この世は唯、物質しかない」という唯物思想の環境で育った場合に、こういう恐ろしい事態を容易に引き起こしてしまう要因となるのではないかと思われます。

コンクリート殺人事件は共産党員の自宅で起きたものでした。[Click Here!]また、コンクリート殺人事件当時、今回起訴された神作被告(当時は別姓でしたが)の代理人として弁護した人物は、左翼弁護士として知られる伊藤芳朗弁護士でした。

二度とこの種の冷酷な事件が起きないようにするには、犯罪者自身の唯物的な思考の間違いについて根本的に反省を求めることから始めなければいけないのではないかと思います。



  オウム石川公一逮捕に思う。 2004/07/08(Thu.) 14:02 

暑い日が続きます。。。
家を引越ししてから、やることが多くて大変です。まあ、やるっきゃないですが。

最新の話題でオウムの石川公一(オウム「法皇官房」最高幹部)が、国松警察庁長官狙撃事件の容疑者として逮捕されましたが、これは一連のオウム事件の中で非常に大きな意味を持っていると私は思います。

石川は他の信者とは違って、麻原の最愛の3女アーチャリーの教育係を任せられるほど教祖から信頼された人物であり、しかもオウムの実質の教義内容の骨格を作ったのも彼であるし、オウムがある時点から宗教儀式(イニシエーション)に使用した薬物関係の指導をしたのも石川でした。彼は東大医学部に在籍していたので、麻原に対して医療上の知恵も与えていました。

麻原は91年1月に東大生を集めて「オウム真理教東大生グループ」を作って知能集団のようなものを組織していましたが、石川はそのグループのトップとして教祖の寵愛を受けながら教団の方向性などについて助言をしていたのです。

また、彼は大物政治家との人脈を持っている関係もあって、麻原の側近中の側近でありながら常に身柄を守られる立場にありました(ほとんど全ての事件の概要を知っていると思われる位置にあったにもかかわらず一件も起訴されていないことは、まことに不思議だと言わざるを得ません)。
現在、麻原は薬物(主にLSD)の影響でかなり脳がやられていますが、この石川という男こそ、オウムの教義がいかにして形成されていったか、一連の犯罪がどのようになされたかを教団の「内側から」客観的に述べることができる人物であると言えます。

石川逮捕という新局面を見て、私は以前オウムの現役信者らと教義内容や事件について徹底的に論戦した時のことを昨日のことのように思い出しました。オウム事件とは一体何だったのか。教祖の死刑確定を待つばかりとなった今、側近中の側近であった彼がその本質に迫る供述をなすことに期待したいと思います。まずはともかく、警察の当面の狙いである国松長官狙撃の真犯人逮捕が不発に終わらないように願うばかりです。




  検索    


 
■むちゅうの気まぐれ日記■