■「崑崙丸(こんろんまる)」撃沈事件について
▼ 金賛汀著『関釜連絡船』(朝日新聞社、朝日選書、1988) 「1943(昭和18)年10月5日、崑崙丸は米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。『関釜連絡船史』(注:国鉄広島鉄道管理局発行)はその時の状況を次のように述べている。 |
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第5便として乗客479名と警官、税関吏、海軍警備兵を含め乗組員176名、合計655名を載せて下関港を出港した。 定員は2,050名であったが乗船予定の軍用列車が遅れたため、乗客が少なかった。 先に出港した金剛丸の後を崑崙丸は、当時のすべての日本船がそうであったように、灰緑色の船体という隠密スタイルで、厳重な灯火管制のうえ、やや時化気味の玄海灘を一路釜山に向けて快調に航行していた。 5日午前1時15分ごろ、沖の島東北約10海里の海上で、突如米潜水艦におそわれて左舷後部手荷物室付近に魚雷が命中した。 船内では、この突然の大衝撃で電灯が一瞬に消え、暗黒の修羅場と化してしまった。妻は夫を求め子は親を呼び、船体の裂ける音、パイプの折れる音響等さながら地獄のようであった。船は左舷へ大きく傾斜し、いったん復元したが、船尾から海中へ沈んでいった。煙突から断末魔のあがきにも似た黒い煙をはきながら、棒立ちに大渦を巻いて海底へのまれた。 その頃、釜山港を出港した天山丸は、金剛丸と行き違い当然次に出会うべき崑崙丸が見えないので一まつの不安を抱きながら下関へ入港した。午前10時30分再び下関港を折り返して11時過ぎ対馬付近を航行中、上空の海軍機から崑崙丸が撃沈されたことを連絡してきた。天山丸はその海軍機に誘導されて遭難現場へ急行した。 特寿丸、昌慶丸、壱岐丸が相次いで現場に到着したが、その日は海が荒れて救助作業は思うようにまかせず、5日午後過ぎまで続けられたが結局乗船客479名中生存者28名、船員165名中41名、その他乗船警察官、税関官吏、海軍警備隊等11名中3名の生存者を数えるのみの、関釜連絡船史上最大の悲劇であった。 この事故後10月8日から連絡船の夜間運行は中止となり、海軍の協力によって護衛つきの昼間運航のみとなった。 |
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この時、崑崙丸に魚雷を放ったのは1943年9月30日、宗谷海峡から日本海に侵入した3隻の米潜水艦のうちの1隻、ワフー(Wafoo)号であった。この米潜水艦の日本海侵入以後、1945年6月まで、日本海軍による懸命の防御処置、例えば日本海の入り口への機雷堰の敷設などで、米潜水艦の侵入はなくなり、潜水艦による関釜連絡船の撃沈はないが、B29などによる機雷の投下で多くの連絡船が破損している。」(同書P.185〜187) |