「希望の日の到来」と題するバンケットが、東京の帝国ホテルで行われたのは、1974年5月7日のことだった。メーンスピーカーは文鮮明師。来賓代表が当時の蔵相、後の首相、福田赳夫氏であった。(中略)バンケットの文師のスピーチに興味をもった私はその後、青年たちが主催する修練会なるものに参加した。その体験記を「かいまみた原理運動」と題して『文藝春秋』(1975年、4月号)に掲載したことがある。それから20年、その後の統一教会と文師の活動をそれこそかいまみてきたのである。(中略)教祖である文師の評判は、最悪である。日本の青年を奴隷のようにこき使って、彼らが稼いだお金を全部ポケットに入れ、自らは豪邸に住んでいると酷評される。イエス・キリストも「悪鬼の頭」とユダヤ人から罵られたが、それに似ている。(中略)日本中が文師を悪しざまに言っているのを聞くにつけ、文師のことを少し知っている私は不安になった。もし、文師がメシアであったら、彼に反対した日本人はどうなるだろう。イエス・キリストを十字架にかけたユダヤ人の2千年の歴史は、何かを物語っていないのだろうか。文師が果たして「メシア」なのか、『偽メシア」か。私の好奇心は、その白黒をハッキリさせたくなって、今度は文師について書きたくなった。(「はじめに」より) |