原罪のないイエスの体は「生命の木」、つまり神が宿る神殿にたとえられます。サタンはイエスを十字架で殺すことによって神が降臨できる最後の基盤を崩し、人類史が「第2のアダム」を中心に再出発してしまうことをついに阻止したのでした。サタンが最も恐れることは「生命の木」の繁殖、すなわち原罪のないイエスのような人間が地上に増殖して「神の王国」が出現し、真実の人類史が出発してしまうことだからです。
しかし、サタンはイエスの肉体を奪うことはできても、その魂(霊人体といいます)までも奪うことはできません。そこで、イエスは十字架で死ぬことを条件(引き換え)として全人類に「霊的救い」をもたらす道を開くことができたのです。それが、イエスの復活でした。それは、イエスが人類のメシヤであることを信じるという信仰を告白する人に与えられる聖霊の降臨(ペンテコステ)を意味しています。実際、多くのクリスチャンはイエスを信じることによって「聖霊体験」を通過します。
しかし、その救いはあくまでも「霊的救い」であって、人間始祖以来の原罪そのものが消滅したというわけではありません。原罪はアダムだけでなく、アダムとエバの血縁関係(結婚)を通して生じたものですので、その清算(消滅)はイエスという「第二アダム」が誕生したというだけの条件では無理なのです。あくまでも、第二アダム(イエス)が「神の子」として聖なる結婚をして「真の父母」(真のアダムとエバ)となって人類に聖なる婚姻の儀式を与えない限り不可能なことです。
だからこそ、イエスは「私はまた来る」と言って再臨を預言したのです。再度、強調します。原罪という血統的な罪から我々が救われる道は、まず再臨主(第三アダム)が誕生し、その方が聖なる結婚をして「真の父母」となられることでアダムとエバの犯した血統的な罪が完全に清算され、更に「真の父母」を通して神が祝福する聖なる結婚の儀式に我々が参加することによって実現するのです。今日までのキリスト教の歴史は、まさにその「真の父母」としてのメシヤ再臨を求めてきたものであった、というのが歴史の真実です。
さて、イエスは十字架から蘇りました。そして12弟子をもう一度編成するために、弟子たちの前に霊的に出現したのです。やがてその集団は「キリスト教徒」と呼ばれるようになります。パウロなどの努力によって(パウロ氏はイエスと直接に接した人物でないというハンデもあって、その神学には多くの難点がありますが)、キリスト教信仰とその神学は西洋の文化圏を呑み尽くし、全世界に拡大していきました。
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