「原理運動反対父母の会」(本間テル会長)設立の経緯

統一教会に反対する勢力の根になった「原理運動反対父母の会」および「憂慮する会」は、どのような経緯で発足し、活動を広げてきたのでしょうか。細かく見ると様々な経緯がありましたが、ここではごく簡単にその時系列を追ってみたいと思います。
1971 2月 本間テル氏の長女ハツ子さんが統一教会の研修会に参加。
4月 ハツ子さんを棄教させるため4月12日ガら6月2日まで秋田県の精神病院(島田病院)にハツ子さんを強制入院させる。
10月 ハツ子さん家出、上京し、統一教会に入会。
1972 11月 本間テル氏、秋田統一教会を訪れて暴れる。翌月には警察に連行される。
1973 4月 日本共産党の後援で「陽光会」設立。
10月 日本共産党と共同でビラまきを始めるなど、本間テルの反対活動は共産党と連携するようになった。その結果、政治活動の色彩を濃くしていった。
1974 4月 秋田の父母の会が統一教会側の話を聞くため集会を開くが、本間テル氏が次第に孤立することとなり、活動範囲を地域から全国基盤に切り替えていった。
1975 1月 本間テル氏、「原理運動反対父母の会」を結成。
2月 第1回被害者父母の会全国大会を開催。統一教会本部にステッカーを持って押しかけ、文鮮明師の写真を踏みつけるなどの過激行動をする。
1977 2月 日弁連人権擁護委員会へ、意図的に歪曲した統一教会の「被害状況」(アンケート結果)を提出して調査を請求。旧社会党、共産党などが連動する。
3月 第2回被害者反対父母の会を開催。
1978 11月 早稲田大学の村井資長総長を会長とする「憂慮する会」が発足。反対運動に牧師、弁護士、学者などが連携する体制が確立していった。
1984 4月 日本基督教団北海教区で「北海道憂慮する会」が発足。戸田実津男氏を会長として、統一教会会員に対する拉致監禁、強制入院、強制改宗などの行為を繰り返すようになった。吉村正氏の監禁事件は氷山の一角にすぎない。