◆神の摂理と預言者ラスプーチン◆


ラスプーチンという人物

ラスプーチン
(1871〜1916)といえば淫蕩な怪僧、魔術師、不死身の超能力者などとして知られていますが、神の摂理史的観点から見ると、そういう評価は一面的なものにすぎないと私は思います。

私の考えでは、このラスプーチンを当時のロシアが「預言者」として正式に認めるかどうかが一つのポイントであったと思います。ラスプーチンは1871年1月23日(異説あり)、西シベリアのボクロクスコエ村という農村に生まれましたが、その夜は西シベリアの上空に非常に大きな流れ星が弧を描いたので、農民たちは何か重大な出来事が起きる前兆を感じたと言われています。

ラスプーチンは幼少時から聖書を丸暗記してしまうほどの強い宗教的感性があり、動物とも自由に対話することができ、動物が病気にかかると患部に手をかざして治療していました。ただ、19歳で結婚したものの、彼の女性遍歴と異常な性的パワーに関するエピソードは枚挙にいとまがありません。

しかし、
基本的には彼は非常に敬虔なクリスチャンでした。修道院での信仰生活や熱心な巡礼活動、聖書の講義、心霊治療によって多くの病人を救った活動などはまぎれもない事実です。ラスプーチンは性的行為というものを「神から与えられた恵み」であると考えており、性的行為により霊性やヒーリング能力を高めることができると信じていました。

やがて、彼の説教に感銘を受けた人々や心霊治療によって救われた人々によってラスプーチンの名声は一挙に高まっていきました。しかし、
彼は名声を自慢することもなく、いつもだぶだぶのズボンとラフなシャツの姿で行動しました。彼の信奉者の中には彼に対して公衆でのマナーや服装について助言しようとする人もいましたが、かえって彼の素朴で質素な姿勢に親しみを覚え、結局は彼のスタンスを変えることはありませんでした。

ラスプーチンの人間に対する観察力や、時代の変化を預言する能力は異常なほど正確でした。そして地位や名誉にこだわらない彼は、誰に対しても感じることをそのままズバズバと指摘しました。


預言者としてのラスプーチン

そういうラスプーチンの噂は、やがてロシア皇帝にも伝わることとなりました。当時、ロシア
皇帝ニコライ2世の長男(アレクセイ皇太子)が血友病だったため、怪我の内出血が原因で高熱に倒れていました。どんな医者も治すことができません。そこで、皇后アレクサンドラの要請でラスプーチンが宮廷に呼ばれることになったのです。

ラスプーチンは、場所が宮廷であろうがどこであろうが、やることは同じでした。瀕死の状態になっている皇太子のベッドのそばでひざまづき、神への祈りを始めました。静寂が数分間続いた後、ラスプーチンが皇太子に声をかけると皇太子はゆっくり両目を開け、みるみる血色と笑みを回復しました。この奇跡はロシア中に広がりましたが、とりわけても皇后アレクサンドラは彼の熱烈な信奉者になりました。

しかし、ラスプーチンは皇室という権力の中枢にあっても自分の思う所をズバズバと述べるため、それを快く思わない人々が生じてきました。特に、
皇后アレクサンドラがドイツ出身であったため、ラスプーチンが皇后と関係を深めることによってドイツとの講和を企てているのではないかという噂が広がり、ドイツに敵対心をもつ保守派を大いに刺激しました。ラスプーチンと皇后が不倫関係になったという話もありますが真偽は不明です。次第に彼は暗殺の危険にさらされていきました。

1917年をめぐる神の摂理とラスプーチンの死

ラスプーチンには神から与えられた何か大きな摂理的使命があったのでしょう。彼はまさに不死身という名に値する強靭さを持っていました。保守派から命を狙われていた彼は、1914年6月28日、何者かに腹部を刺されました。腸が何箇所も切れたため大量出血をして重傷を負い、普通ならば即死する状態でしたが、彼は1か月後にベッドから起き上がっています。

そういう状況を通して、やがて
彼は神から与えられた使命が中断することを霊的に感知したようです。摂理的には、ルターの宗教改革から400年(1917年)を迎えて新しい時代が出発するべきなのですが、そのためにはラスプーチンのような強烈な信仰者・預言者がロシアには必要だったのでしょう。ところがロシアは彼を拒み、彼を暗殺するようになったため、1917年をめぐってロシアは神の意図に反する方向に進む大きな要因を作る結果になったのではないか私は考えます。

ラスプーチンは1916年11月に皇帝に対して書簡を送り、最後の預言を行ないました。「1917年を迎える前に自分は殺されるであろう」、「もしも自分が死ねば、皇帝と一家は2年以内に全員殺されるであろう」という内容でした。
預言者として命がけの最後の警告であったと解釈することもできます。この預言に、私はラスプーチンの預言者としての毅然たる自覚や使命感を読み取ることが出来るように思うのです。

1916年12月16日、いよいよラスプーチンは死の近いことを自覚しました。そして、「私が殺されれば皇帝の地位も3か月で終わるだろう」と予告しました。その夜、彼はモイカ宮殿で暗殺者たちに青酸カリの入ったワインによって毒殺されかかりましたが、何といっても彼は不死身です。10人は殺せるといわれる分量の青酸カリでも彼は死にませんでした。そこで、暗殺者らは彼をピストルで撃ちました。何発もの弾丸を受けて彼は倒れました。しかし、死んだと思われた彼はしばらくして突然起き上がって歩き始めたので暗殺者らは恐怖におののき、更に4発ほど彼に向かって撃ちました。2発が背中に命中して、ようやく彼は倒れました。

しかし、暗殺者らは念には念をということで、動かなくなった彼に殴る蹴るの暴行を加えた上で頭部を砕き、遺体を白い布でくるんで、氷の張った運河に投げ込みました。ところが、19日の早朝にラスプーチンの死体が発見された時、驚くべきことに彼の肺には水が詰まっており、明らかに水中でもがいていた痕跡があったのです。

さて、1917年を迎えたロシアは2月にロシア革命を起すこととなり、3月に皇帝ニコライ2世は退位しました。そして、翌1918年7月16日、皇帝一家は全員射殺されました。ラスプーチンの預言はほぼ的中したと言えるのでしょう。

20世紀をしめくくる主教会議

2000年8月13日から16日にかけて、ロシア正教会の主教会議がモスクワで開催されましたが、その会議で帝政ロシア最後の皇帝であるニコライ2世や皇后アレクサンドラ、4人の娘(オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシア)らを殉教者として認定し、「聖人」に加えることが決議されました。

この主教会議において、教会最高位のアレクシー2世総主教は「今回の会議はキリスト教史上、最も恐るべき迫害の時代の一つとなった20世紀を締めくくるものだ」と述べられました。まさか、間違ってもラスプーチンまでが聖人に加えられることはないでしょうけれども、わが子を病気から救ってくれたラスプーチンを最後まで慕い続けた皇后アレクサンドラが殉教による聖人として認定されたことで、霊界のラスプーチンも多少は浮かばれるというものでしょうか。世間の評価はどうであれ、私としては使命なかばで霊界に行かざるを得なかったラスプーチンの心情に癒しあれ、と祈るばかりです。2003.10.03江本武忠