認識における主観と客観
以下において、人によっては「そんなことはどっちでもいい」と思われるかもしれない、人間の認識のあり方について書きます。確かに、結局はどっちでもいいことになるかもしれないのですが(笑)、本当に究極的に「どっちでも良くなる」ためには、どこかで必要となる内容でもある、ということが言えるかもしれません。
人間の認識の問題で、主観と客観の問題があります。我々が何かを認識する時、そこにどれほどの客観性があるだろうか。。。あるいは、そこに本当に客観的対象というものが確実に存在するという保証はあるのか。。。まあ、いわばそういう問題です。ただ、混乱を避けるため、こういう議論に耐えられない方は強いて読まれないほうが良いかもしれません。

主観を離れた客観は存在するか

私たちが何かを認識する場合、例えば「目の前に赤い花がある」という場合、自分の主観から完全に独立した「赤い花」という物自体が「客観的に」存在すると考えているのが普通です。しかし、自分以外の人がその花を見た時に自分と全く同じように見えているという保証はありませんし、主観から独立した事物が認識した通りに確実に存在するという絶対性はないという見方もできるでしょう。

ここでは、我々の主観的判断がいかにして客観性を持ちうるかという、論証の客観性をめぐるテーマではなく、ただ単純に主観的認識とそれに対応する客観的対象というものの関係について、参考程度に少しばかり考えてみることにします。決して厳密な(ましてや学術的な)論説の展開ではありませんのでご了承下さい。

カントの認識論的主観主義

ドイツの哲学者
カント(Immanuel Kant)は「純粋理性批判」の中で、主観から独立した物自体(Ding an sich)を人間が認識できるとは考えず、認識しうるのは「現象」(Erscheinung)のみであると考えました。しかも、その現象というものも主観から独立したものではなく、主観そのものが有する先天的な認識形式によって構成されるものと考え、あくまでも主観から独立したものの認識というもの(の絶対性)を排除しようとしました。このようなカントの考えは「認識論的主観主義」、「先験的観念論」などと呼ばれてきました。

カントは、客観的な「対象」に従って主観的な「認識」が生じるという従来の立場を捨てて、むしろ逆に「対象が我々の認識に従うと考えることによって、形而上学の課題において、よりよく成功し得るのではないか(中略)・・・この事情は、ちょうどコペルニクスの最初の思想の場合と同様である」(Kritik der reinen Vernunft,B.]Y)と考え、この考えを自ら「コペルニクス的転回」と呼びました。そして、カント以降の思想家たちはこのカントの思想的転換に対して、程度の差はあっても何らかの有形無形の影響を受けつつ自説を展開している、と解釈することも可能かもしれません。

臨済禅師の四料簡

カントの認識論的主観主義を含めて、主観が客観的対象というものを構成しているのだという考えは、決して客観的な事物それ自体の存在を否定するような考えとは異なりますし、全ては心の反映であるとする唯心論的な考えとも異なります。唯心論だの唯物論だのという議論を超えて、いわば認識上における一つの自覚の深まりを指摘しているとも言えると思います。

これが仏教などになると、もっと徹底した形で主客の問題を論じたものがけっこう存在していて、例えば臨済宗の宗祖となった
臨済義玄禅師は認識上の主観と客観について「四料簡(しりょうけん)」という考えを説いています。

四料簡というのは、「人」(主観)と「境」(客観)というものに対する認識のあり方をめぐって禅の修行過程を4つの局面から説いたものです。これを修行の4段階としてとらえる立場もあります。
(1)「
人を奪って境を奪わず」(奪人不奪境)
(2)「
境を奪って人を奪わず」(奪境不奪人)
(3)「
人も境もともに奪う」(人境倶奪)
(4)「
人も境もともに奪わず」(人境倶不奪)

禅的に説明すると、(1)は禅の修行を始めて仏教の「無我」を悟り、自己意識(人)が消えて客観世界(境)になりきる状況。(2)は仏教の「無常」を悟り、客観世界(境)は全て空であると諦観し、自己意識(人)が宇宙大になる世界。(3)はいわば仏教の「涅槃寂静」を悟り、否定する自分も否定される環境も空であるという静まりかえった世界。(4)は(3)の絶対否定を転じて真我が蘇る世界で、いわば「あるがまま、不生不滅」の山川草木、「花は紅、柳は緑」の世界、禅の「十牛図」でいえば第十段階の「入廛垂手(にってんすいしゅ)」、自由無碍、天地自由人の、いわばにぎやかな活発の境地です。

仏教だけでなく、ヨーガの達人や、いわゆる聖人・聖者といわれる人々のメッセージを読むとき、そこに主観・客観を超えた神秘境のような深い観点を感じさせられると同時に軽妙な自由さを感じるのは、禅にも通じる真我の消息が現れているからでしょうか。

ちなみに統一原理によれば、「森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。人間は、このように、被造世界の中心として創造されたために、神と人間が合性一体化した位置がまさしく、天宙の中心となる位置なのである」(創造原理第2節三の4)と述べ、また「(中略)その花の創造目的と、その花に対する人間の価値追及欲とが合致する瞬間、その対象と主体は渾然一体の状態をなすようになる」(同第4節の一)とも述べています。

統一原理は聖書の世界観と同様、人間が神の子として創造された事実、人間が被造世界を統治する立場にあるという事実を認める立場ですが、仏教の世界では創造神という存在を認める立場ではありません。むしろ、それまでのインド的な主宰神を否定して登場したのが仏教でした。

ところが、
宗教経験の究極的な場に迫れば迫るほど、その辺の宇宙観が統一される可能性も高くなるようにも思われます。禅思想を世界に普及した鈴木大拙博士はキリスト教にも造詣が深く、ある意味では「創造神」に対する理解があったとも言える言動もありますし、臨済宗の大森曹玄老師による禅修行を全て修了して臨済宗正伝の法を継承した師家である門脇佳吉神父などは同時に公式のカトリック司祭でもあります。

中観と唯識

主観と客観という問題とは少し離れてしまうのですが、仏教の話題になったので少し補足しますと、悟りを開いた仏陀(釈迦)以降のインド哲学では、真理(諦観)というものを上から演繹的に説く傾向のある「
中観派」と下から帰納的に説く傾向を持つ「唯識派」という2つの流れがあります(厳密に演繹と帰納に別けられるということではなく、あくまでも傾向性として認められるということですが)。

そして、この2つが分派した原因を探ると非常に面白いことが検証され、それ以降の仏教が必ず2つに分かれる傾向が生じる根本原因に突き当たるのですが、これについては機会があったらどこかで書きたいと思います。
少しだけ申し上げると、例えば日本の仏教では大きく自力門と他力門に分かれていますが、同じ自力門といわれる禅門でも臨済系と曹洞系では真理の説き方が異なりますし、他力門の浄土門でも浄土宗と浄土真宗では弥陀名号に対する捉え方が異なるのですが、その根本原因をさかのぼればインドの思想に由来しており、どうしても2つに分化する原因があると私は考えているのです。

大げさに言えば、中観派の元祖である龍樹(ナーガルジュナ)と唯識派の元祖である世親(ヴァスバンドゥ)の双方の流れにある根底的な考え方を統一させることができれば、全ての宗教を統一するプロセスを基礎付けることができるのではないかと思えるほどです。
実は、私はキリスト教を専門としながらも、研究手順のなりゆきで卒論の段階では仏教の中観派と唯識派の分派原因に関する研究内容になってしまったりしたのですが、この内容はキリスト教の思想とも大いに深い関係があると考えています。宗教統一といってもいろいろな局面がありますが、厳密な学問的立場においてはこういう認識のあり方についての見解をいかにまとめるかという問題が今後は次第に重要になるのではないかと思います。

そういえば、今年の8月14日の「世界日報」には筑波大学の
加藤栄一名誉教授が「科学と宗教の統一は可能である」という論説を掲載しておられて、その中で「例えば『私と私以外のものは同じだ!』という悟り」等を例にあげ、宗教上の神秘体験は科学的に解明可能であることを強調しておられます。
そして、奇遇なことに、加藤先生の「道号」が龍樹と世親(天親ともいう)を合わせた「天樹老人」であることが書かれていることには、いささか驚いてしまいました。宗教統一を目指す者にとって、目の付け所が似てくるのは必然と言うべきなのだろうかと、きわめて興味深く読ませていただいた次第です。2003.9.2江本武忠