以下、韓国の著名な月刊誌『新東亜』に掲載された記事の日本語訳を引用します。記事はきわめて客観的な立場でレポートをしている点で、偏向した日本のマスコミ報道よりもはるかに情報価値が高いと思われます。
文中、「統一教」とあるのは日本では通常「統一教会」と呼ばれる教団を指します。

なお、長文のため重要と思われる部分を太字のフォント等にしています。(江本武忠)

「勝共から親北に」、統一教の対北プロジェクト


■李ジョンフン 東亜日報 新東亜記者


原文出典:『新東亜』2000年9月号


ある時期、統一教は極右と言われるくらい徹底的な反共運動をしました。そのような統一教が、今では北朝鮮と一番仲の良い組織になっています。平和自動車の朴サンゴン社長は金容淳秘書に会い、南北頂上会談に関して助言するなど、北朝鮮を助けることに積極的です。彼らはなぜ勝共から親北に転回したのでしょうか。


<第一部 勝共から親北になった統一教>

南北頂上会談が終わった後、6月28〜30日の間、
現代グループの鄭ジュヨン(85)、鄭モンホン(52)親子一行が北朝鮮を訪問すると、全てのマスコミは鄭氏親子が頂上会談後最初に北韓を訪問した韓国人になったと報道しました。しかしこれは誤報でした。鄭氏親子が北韓に訪問する一週間前、統一教傘下の平和自動車社の朴サンゴン(50)社長が平壌に行って来たためです。現代は代表団の訪北を積極的に広報しましたが、統一教の朴社長は反対に徹底的に隠していたので、この様な誤報が生じました。

自動車工場建設は、金正日(58)国防委員長を初め、北韓の首脳部が最も求めている産業の分野です。この様な意志を把握した平和自動車社は98年1月7日、北韓の機械工業会社である朝鮮ヨンボン総会社と7対3の比率で出資して、北韓に平和自動車総会社という合弁会社を設立しました。平和自動車総会社の理事長は朴サンゴン氏で、副理事長は朝鮮ヨンボン総会社の総会長である李チョンチョル氏と、統一教傘下の日本の法人代表の小柳定夫氏です。

去る2月3日、平和自動車総会社は平安南道南捕市ハング洞にある33万坪の土地で第1段階の総合工場着工式を行いました。この工場が完成すれば、平和自動車総会社はイタリアのフィアット社の製品である2500?クラスの大型車「アルファロメオ」と、小型車である「シエナ」を組み立て生産する計画です。

平和自動車総会社は第一次として年間1万台生産を目標にし、金正日国防委員長の還暦である2002年2月16日に第1号完成車を出す計画です。最初の5年間に統一教(平和自動車)が投資する金額は3億ドルです。2006年からは年間生産量を10万台に増やすと共に平和自動車総会社の自社モデル、すなわち北韓最初の国産モデル乗用車を出荷する計画です。

この様な理由で朴社長は、以前から南北関係を詳しく取材している記者達の間では、取材対象のトップに名前があがっています。しかし、難攻不落。朴社長は韓国でビジネスを済ませると直ぐにアメリカに渡ってしまうという方法で記者達を近づけませんでした。(朴社長の国籍は韓国ですが、生活根拠地はアメリカ) 朴社長とインタビューしたマスコミは、シサジャーナルが唯一です。

今回取材のため、記者は朴社長が断ることの出来ない色々なルートを動員してインタビューを申し込みましたが、朴社長は「会わない方がよい」という返事を送ってきました。非報道を前提にした取材を申し込んでも、彼の答えはいつも「ノー」でした。

隠れる密使、パクサンゴン社長

この様な朴社長が南北頂上会談を20余日前に控えた、去る5月23日、ロッテホテルで開かれた
平壌学生少年芸術団招待関連の記者歓談会に現れました。平壌学生少年芸術団は、98年5月2日リトルエンジェルスが北韓を訪問したことに対するお返しとしてソウルに来ます。朴社長がこの席に現れたということは、彼が平壌学生少年芸術団の訪韓を主導していることを意味します。

朴社長は、とても喜んでいて、「現在まで私は、全て34回北韓を出入した。私は大学で新聞放送学を専攻したので、新人社会人の時、アナウンサーになるため、MBC放送のアナウンサー試験を受けたことがある。」という話をして、記者達に親近感をあらわした後、彼の対北観を青山流水が如く語り始めました。徹底的に記者を遠ざけてきた姿とは、全然違う姿でした。

しかし歓談会に集まった記者達は、平壌学生少年芸術団の訪問を取材するために来た文化部の記者が大部分でした。その為か、朴社長が明らかにした南北事業の内容は注目されませんでした。この日、朴社長の発言を熱心に書き留めていたのは私だけでした。朴社長は、「私達も北韓を誤解していますが、北韓も私達を誤解していることが沢山あります。」という南北頂上会談と関連する秘話を明かしてくれました。

「2月3日、平和自動車総会社の工場起工式に行った後、私は今残されていることは南北頂上会談だけだと思いました。それで北韓実力者達に、金大中大統領の任期前半に頂上会談に応じるように、何度も助言しました。そのように勧めたのは、すでに北韓が頂上会談に応じる意志があるという信号を発しているのを何回か感じたからです。問題は、そのような信号を見る術を知らず、また私たちが送る信号を北韓が読む術を知らないことにあります。」

続いて朴社長は「南北頂上会談開催の発表があった後(5月中旬)、青瓦臺(大統領官邸)で開かれた企業人午餐会に参席したことがある」と語り、その時10分間の発言時間をもらい金大中大統領にこのような話をしたことを明らかにしました。

「大統領頂上会談が開かれること自体が勝利であり成功です。ですから金正日委員長と会われたら、美味しく食事をなさり、晴れ晴れと笑いながら写真だけ撮って来るつもりで行って来て下さい。持ってくるのは写真だけで、あちら側には大きな愛の風呂敷包みを置いて来るというつもりで行って来て下さい。大統領が持って行かれる風呂敷包みの中で一番重要なことは統一方案です。可能ならば凡国民的な統一方案を持って行かれて、あちらの高麗連邦制統一方案と並べて論議してきて下さい。凡国民的な統一方案を準備する時間がなければ、大統領が平素考えてこられた3段階統一方案を、金委員長に熱心に説明なさって下さい。私たちの統一方案を北側に植えておくことだけでも、大統領の訪北は充分な成果を上げたことになります。大統領は全羅道のハイ島が故郷です。ですからハイ島住民が漬ける美味しいキムチを持って行かれ、平壌でご飯と混ぜて金正日委員長と美味しく食べてきて下さい。統一ビビンバを美味しく食べて来られることだけても統一の日は引き寄せられることでしょう。」

金容淳との秘密討論

記者は、朴社長が南北頂上会談と関連したある種の役割を持っていたと思い、手を挙げて質問をしました。朴社長が答えたならば、彼の対北功績が明らかになってしまう質問をしたのです。朴社長が返事をしようとした時、マスコミ関係を担当している安ホウヨル(47)企画局長が横から口を挟んできました。

「今日は、平壌学生少年芸術団の訪問関係に限った質問をしてください。他の質問は避けて下さい。」と。このために記者は貴重な情報を得る機会を失ってしまいました。

三ヶ月後、記者は北韓情報が豊富な機関の関係者から、頂上会談と関連した朴社長の役割の一部を聞くことが出来ました。彼は、「まだ南北両方で確認できている情報ではないが、事実の可能性は99%です。」という話を聞かせてくれました。

「2月3日、平和自動車総会社の着工式には朴サンゴン社長だけではなく、朴普熙(70)金剛山国際グループ会長も参席しました。北韓では、金容淳(66)朝鮮労働党対南担当秘書及び亜太平和委員会委員長、宋ホウギョン亜太平和委員会副委員長などが参席しました。この時朴普熙会長と金容淳委員長は、別途会談を持ち、北韓が南北頂上会談に応じるかどうかについて討論しました。北韓の対南業務実力者が統一教幹部に、どの様に対南政策を進め方について諮問しました。朴普熙会長は積極的に頂上会談に応じる方がよいと勧めました。

金正日委員長の58回の誕生日の2月16日に、朴サンゴン平和自動車社長が再び北韓に入りました。誕生祝賀宴が終わった翌日、金容淳委員長と朴サンゴン社長は、金正日委員長の指示で、平壌からジープで4時間ぐらいの所にある山荘(場所は未確認)に移動し一晩共に過ごし、北韓が南北頂上会談に応じるべきかどうかを主題に討論をしました。

率直な対話をするため、2人はハンティングに出てノロを一頭を捕まえ、夜中対話をしたと聞いています。全情報網を駆使して確認できたことは、この日、朴社長は「この機会を逃さないように、今年中に頂上会談が成就できれば北としては大成功です。」という風に説得したということです。金正日委員長が、直接、平壌空港で金大中大統領を迎接するくらい南北頂上会談に積極的に臨んだのは、この様な背景がありました。

記者はこの情報の真意を確認するため、統一教実力者達に「朴サンゴン社長と金容淳委員長が秘密に山荘に行って、南北頂上会談に応じるべきかどうか討論したことが事実かどうか、宗教人の良心にかけて答えてください」と尋ねました。「私は知らない。」というように答えた人もいましたが、一部は「宗教人の良心にかけ」という言葉が引っ掛かったのか、「そんなことを明らかにしてはいけない」と答えました。朴社長と金秘書の山荘接触はあったということは明かです。

1985年共産主義終焉宣言

金大中大統領がベルリン自由大学で「北韓と政府当局間協力をする用意があります。北韓の経済再建を積極的に支援します。」という要旨のベルリン宣言を発表したのは3月9日でした。この様にいくつかの出来事が噛み合ったことにより、南北頂上会談は成就出来ました。統一教が、南北頂上会談に応じるかどうか迷っている北韓最高指導部のために、北韓側に立って助言したということは注目に値することでした。

統一教教主である文鮮明総裁(80)は平北定州が故郷です。光復後、彼はスパイ容疑で
興南刑務所に投獄されましたが、仁川上陸作戦で反撃作戦に出た国軍が、興南占領した1954年10月14日に解放されました。単身越南した彼は、釜山市東区凡一洞の「ボンネッコル」を舞台に宣教活動を開始しました。1954年5月、ソウルに世界基督教統一神霊協会という看板を出して、統一教を出発しました。この当時の彼の説教は、反共を強力的に主張していました。

1・21事件とフエブルロ号拉致事件、ウルチン・サムチョク武装スパイ侵入事件が起こった1968年、彼は統一教外郭団体である国際勝共運動連合を創設し、本格的に共産主義と闘い始めました。弟子と信徒達を通して、共産主義は虚構であるという思想を積極的に伝播しました。1979年10月26日、朴正熙大統領が死去するや否や、全国的に安保団合大会を開きました。

この様な統一教が対北事業に熱を上げています。すでに北韓の側に立って、北韓実力者達に助言を与えているのです。勝共を主張した統一教は、なぜ北韓と近くなったのか。統一教はなぜ北韓と近くなったのか。統一教、彼らは反共を偽装していた親共勢力だったのか。「彼らの指向点は何なのだろうか?」

話は左翼学生運動が吹き荒れた全斗煥大統領の時に遡ります。各大学総学生会が復活し、左翼学生運動の炎が燃え広がる1985年は、ソ連のゴルバチョフ大統領がグラスノスチ(開放)を宣言しましたが、世界的にはまだ冷戦が続いていました。その年の8月20日、文総裁が何の啓示を受けたのか、統一教傘下団体である世界平和教授アカデミー所属教授達をジュネーブに集め、「共産主義は終わったと宣言しなさい」と指示しました。議長を引き受けることになったモルトンカプラー博士は文総裁を3回訪ねて、「共産主義終焉宣言」を別の言葉に代えることを進言しましたが、文総裁は「後5年で共産主義は崩れてしまうという共産主義終焉を宣言しなさい」と命令しました。それでソ連帝国の滅亡という題目を掲げてセミナーをして、共産主義は終わったと宣言しました。これについて文総裁は1997年11月26日ワシントンで開かれた世界言論人会議で、「国際政治力学的観点から見たのではなく、神の救援摂理面から見たために、共産主義の終焉を宣言しなさいと言いました。」と明らかにしました。

朴普熙と朴敬允の初めの出会い

1986年、全大協を中心とした主思派の嵐が吹きあがりました。当時、統一教は
原理研究会基督教学生会という大学生組織を運営していました。「共産主義は終わった」と宣言した統一教は、その年の5月15日、この2つの団体を合わせて、全国南北統一学生総連合(統学連)を作って対抗しました。この時、統学連を引っ張った人が現在世界日報の編集人である孫炳禹(55)です。統学連は運動圏(左翼学生団体)が貼ったビラの横に、これに反論するビラを貼り対抗しましたが、大学側の全体的な雰囲気は統学連に不利なものでした。

これを契機に、統一教は勝共から統一に方向を修正しました。その様な時、
ソウルオリンピックが終わり、東欧圏が連鎖的に崩壊するという大ドラマが起こりました。文総裁の予言通り歴史が流れていったので、大学側から迫害されていた統学連の組織が息を吹き返しました。

朴普熙氏の活躍が始まったのは、この時からです。文総裁が朴普熙会長に下した命令は、北韓とのパイプを作ることです。文総裁がこの様な指示ができたのは、廬泰愚政府が北方政策を始めたことも一つの背景にあります。

朴会長は北韓進出の前進基地として、中国広東省ヘジュに30万坪の土地を準備し、
パンダ自動車会社の建設を始めました。当時北韓を自由に往来できる韓国系人物は朴敬允氏(66)只一人でした。中国の広東省長の紹介で朴敬允氏に会った朴普熙会長は、北韓進出法案を準備してくださいと頼みました。

2人が香港で再会した時、朴敬允氏が「重要な方を紹介しますから、北京に来られますか」と尋ねると、朴会長は「喜んで行きます」と答えました。2人は、1991年11月初旬に中国大飯店(チャイナワールドホテル)で会うことにしました。約束した日、朴会長は統一教が北韓進出に関する事業企画書と、統一教を紹介する資料を持って、中国大飯店に行きました。朴敬允会長と同伴した北韓人は、
金正日秘書の最側近である朴チョングン氏でした。朴チョングン氏は、韓国の国情院(旧安企部)にあたる政治保委部と、労働党対南工作部署の調査部勤務の経歴をもつ対南通です。朴チョングン氏は北韓の金剛山開発総会社総社長の肩書きを持っています。朴普熙会長はこの様な朴チョングン氏に、統一教が行う対北事業と統一教について説明をした後、「北韓が効率一辺倒にいったらいいでしょうか。統一教は勝共運動をしましたが、極と極は通じることが出来ます。文総裁が金日成主席と会って祖国統一問題で意見を交わしたいので、橋渡し役になってください。」と話しました。

朴チョングン氏は「とてもいい発想です。」と答えました。3人は事が成就出来るまでは、徹底的に秘密にすることを誓って別れました。一週間後、朴敬允会長が朴普熙会長に「金正日秘書が送った特使が、北京に来ます。」と言う連絡を送りました。1991年11月16日、朴普熙会長が再び中国大飯店に行って、
金日成の親戚であり北韓の政謀院副総理、金達玄氏(59)に会いました。

神様という単語を掲載した労働新聞


この日、金達玄氏は副総理の肩書きではなく、国際貿易促進委員会最高顧問の肩書きで現れました。彼はその席で招待状を提示しました。招待状には「統一教教主である文鮮明先生貴下…(省略)…招待します。」という文字が書いてありました。宗教を否定する共産主義国家の代表が統一教教主という文句を書いた招待状を提示したのです。文鮮明・韓鶴子夫妻と朴普熙氏が北韓に入っていったのは、15日後の1991年11月30日でした。平壌到着の翌日、12月1日、文鮮明総裁一行は万寿台議事堂で金達玄副総理、
尹基福(74)朝鮮海外同胞援護委員会委員長などと向かい合って座りました。まず朴普熙会長が統一教を紹介して、統一教が北韓で展開しようとする事業について説明しました。北韓側では、尹基福委員長が「私達のやり方通りにやる」という主体思想について説明しました。尹基福氏の話は会談が終わるギリギリまで続きました。

文総裁がコップの水を口にし、「一言話をします。」と言いました。席を立とうとした尹基福氏らが、「どうぞ」と言いながら再び席に着きました。文総裁は「本当に主体思想で統一できると思いますか? 人間を誰が造りましたか? 神様の意志が無ければ統一は出来ません。金日成主席は私の話を聞かなくてはなりません。神様に従っている私に、北韓を3年だけ任せてくれれば、北韓住民全部を生かすことが出来ます。今まで私が共産主義を無くす運動を展開してきたことは、共産主義が持っている憎悪の思想では問題を解くことが出来ないからなのです。」と言うように熱弁を語りました。

朴普熙氏は「文総裁のみ言が、とても尊くて私も知らず"We are finished(もうこれはダメだ)"という文字を書いて、同席した随行秘書に渡しました。」と言いました。文総裁の熱弁が終わった後、朴普熙氏は文総裁に「少し言い過ぎてしまったと思います」と言いました。しかし文総裁は「普熙!私が金日成主席に会うために来たと思うか? 話をするために来たのだ。歴史的な出会いだから、話をしないで帰れば、私は神様の前に罪を犯すことになる。」と言われたと聞きました。

以後の状況について朴普熙氏は「会談上での文総裁の発言は、当然録音されたと思います。尹基福氏と金達玄氏は文総裁が金日成主席と会って、同じように話をすれば、自分達が火の粉をかぶると思い、文総裁と会わない方がよいと報告したと聞きました。」と言いました。ところが報告を受けた金日成主席は「その方が語ったという話を聞いて興味が湧いたので会ってみたい。」と言いました。

この日、北韓側は木蓮館で文総裁一行歓迎晩餐会を開いて、そこで文総裁が演説をしました。翌日、労働新聞は文総裁の演説全文を掲載し、その中には「神様が守ってくださって、私達に統一の時が近づいています。」という文句が入っていました。金主席の指示があったために、神様という単語が入っていた演説文がそのまま労働新聞に掲載されました。

統一教側はこの様な事実から「文総裁は平壌に行っても神様をとりあげて、語りたかった話を全部してきました。労働新聞に神様という文句が掲載されたのは、大きな意味があります。」と強調しています。訪北中に文鮮明総裁一行は文総裁の故郷である平北定州市を訪問し、興南刑務所投獄によって生き別れになった姉さん達と会いました。

金日成は兄、文鮮明は弟

12月5日、文総裁は尹基福委員長と「統一は外勢なしに不可侵に合議して、核エネルギーは唯一平和利用を目的にして、韓半島で核兵器は無くさなければならない。」、「南北高官級会談を経て、一日も早く南北頂上会談が開かれることを祈願する」、「一千万離散家族のため、南北双方の自由往来を推進するようにする。」など、10項目の共同声明を発表しました。同じ日、対外経済委員会委員長の肩書きをもつ金達玄副総理は、金剛山観光地区開発とウォンサンの軽工業基地に対する投資などに対して合議書に署名しました。

その翌日、訪北最後の日の12月6日午前、文総裁一行はハンギョン南道興南にある公館で金日成主席に会いました。朴普熙氏は文総裁が尹基福氏などにしたようにするのではないかと心配したと語りました。ところが文総裁は「…私は牧師です。神様に侍ったら福を受けます。祖国統一は神様がします…」というように丁寧に、金主席に挨拶しました。昼食を食べるまで続いた会談で、文総裁はこんな要旨の話をしたと言いました。

「人間中心の思想(弁証法的で歴史を発展させることは主体思想)では統一を成すことは出来ません。人間の目に見えない良心があるように、神様は目に見えませんが存在しています。この世の万物を調べてみれば、雄雌があり、明暗があり、プラスとマイナスがあります。一定の法則に従ってこの世の万物が造られていることを見れば、この様に造った主体、すなわち神様がいらっしゃるという意味になります。統一は、創造主である神様に頼って推進しなければなりません。」

興味があることは金日成主席の態度でした。金主席は文総裁が話をする途中、3回拍手をしました。金主席は1912年生まれで、文総裁より8歳年上です。金主席は文総裁の説教調の説明を気に留めずに、グラスを持って「私達が兄弟になって統一をしましょう! 共に努力して祖国統一をしましょう!」と言いました。文総裁はこれに同意しながら、同席した金達玄副総理を養子にしますと言いました。

統一教は、金主席と文総裁が兄弟の契りを結んだことに大きな意味をもたせています。統一教の側は、これを聖書創世記に出てくるエソウとヤコブの話に比喩して、北韓(金日成)は兄、韓国(文鮮明)は弟という論理をつくり、兄弟統一論を叫びました。(この部分は後に説明)

文総裁訪北を契機に、統一教の対北事業は始まりました。93年11月、統一教は平壌にあるポトンガンホテル(特級)、アンサンガンホテル(一級)を買収しました。このホテルは現在も統一教が運営しています。統一教が対北事業の中で一番強烈に推進するのが金剛山観光開発事業でした。統一教が金剛山開発を引き受けることになったのは、金日成−文鮮明会談で、金主席が「南北関係が厳しいとき、世界的な組織網を持っている文総裁が、金剛山開発をして下さるよう願います。」と提議したからです。この事業のため、統一教は朴敬允氏と一つになりました。すなわち統一教は金剛山国際グループ名義で事業を推進しますが、朴普熙氏と朴敬允氏がこのグループの共同会長になって、朴サンゴン氏は朴チュンイルという名で社長を引き受けることになりました。(94年)

統一教が獲得した金剛山開発権

金泳三政府初期の93年、金剛山国際グループは香港のある用役会社に依頼し、金剛山観光開発に関する調査を行ない「金剛山観光開発妥当性調査報告書」を作成しました。年が明けた1994年1月27日、朴普熙会長と朴敬允会長は、統一教傘下の日本企業、
ハッピーワールド(販売流通チェーン)の社長である古田元男氏と、現平和自動車副社長である小柳定夫氏らと共に金日成主席を訪問しました。93年12月、金達玄氏は副総理から解任されたために、この時から金容淳秘書が参席するようになりました。

金剛山開発計画の報告を受けた金主席は、「必ずこの報告書の通りに開発しなければなりません。」と、金剛山開発妥当性調査報告書の上に親筆で署名しました。食事の時、円卓に座るや否や、古田元男氏が立って目を潤ませながら「日本人として、日本が朝鮮を植民支配をして被害を与えたことに対し、心からお詫び申し上げます。朝鮮を支配する過程で、朝鮮の多くの若者達を学生兵と従軍慰安婦で連れ去り、犠牲にしてしまったことを恥ずかしく思います。」と謝罪しました。金日成は日本語が全く出来ません。

通訳を通して古田氏の話を聞いた金主席は、「それはあなたの先祖達が犯した罪なので、あなたは心配することはない。とりあえず、過ぎたことですから。去ったことは昨日に任せ、これからその様な前轍を踏まないようにしましょう。」と応えました。この事について朴普熙氏は、「やはり、金主席は器の大きい人物だなと思いました。金正日委員長が器が大きい政治をするのは、父の影響だと考えました。」と語っています。

それから2日後の1月29日、北韓政務院は金剛山開発予定地の土地利用権を50年間、金剛山国際グループに貸与するなどの7項目の委任状を送ってきました。金剛山開発権が完全に統一教のものになりました。

しかし歴史は他の方向に流れていったのです。当時の韓半島の状況は北韓核開発問題で、アメリカと韓国の保守派たちが北韓封鎖を強力に主張していて、北韓は93年5月29日、労働ミサイルの試験発射を通して封鎖政策に対抗しようとする意思を表明しました。94年3月、板門店で開かれた南北会談で、北韓の朴ヨンス代表は「ソウルを火の海にすることも出来る」と発言し、韓国をガッとひっくり返しました。

この様な対決の構図が明確になると、大勢を掌握したアメリカの保守派たちは、北韓を攻撃することを主張しました。この様な主張が続いたため、94年6月16日アメリカのホワイトハウスでは、北韓の各施設を限定的に攻撃する問題などを討論する会議が開かれました。ワシントンの雰囲気は、北韓限定的攻撃側に流れていったのです。


金日成弔問を強行


たとえアメリカが核施設だけを限定攻撃するとしても、北韓がこれを許すはずがなく、韓国に対して攻撃を敢行するので、これは第2の朝鮮戦争に発展しかねません。アメリカは一戦を辞さない覚悟で、パトリオットミサイルを韓国に配備しました。この様になると金泳三大統領は「絶対に韓半島で戦争を起こしてはいけない。」と、クリントン大統領を説得し、一方では南北頂上会談を推進し、膠着状況を突破しようとしました。この様な努力のおかげで、金泳三大統領と金日成主席は歴史的な南北頂上会談をその年の7月下旬に持つことを合議しました。

ところが南北頂上会談の17日前の7月8日、突然金日成主席が死去しました。その為に、第2の朝鮮戦争が起こる可能性は雪が解けるように消えました。北韓で騒乱が起こって、韓半島の事態が急変する事が懸念されました。その様な中でも北韓は揺れないで、アメリカとの高官級会談(姜ソクジュ−カルチ会談)に応じ、その年10月KEDOを設置し、北韓は2機の原発の提供を受ける代わりに、北韓の核施設を閉鎖する「ジュネーブ合議」に署名しました。

こういう形で韓半島情勢が揺れ動いたので、韓国政府は統一教の金剛山開発事業を承認することが出来ませんでした。この時期、統一教は韓半島の情勢をどの様に見ていたのか。匿名を条件に取材に応じた一人の統一教幹部の話です。

「94年の戦争危機は、私達は韓国の観点を通して北韓を見て、北韓は北韓の観点を通して韓国と世界を見たために起きたのです。その時の北韓の「ソウルを火の海にする」という発言の真意は、アメリカが戦争を仕掛けてきたら、北韓は逃げないで自殺行為だとしても最後まで抵抗するという意味でした。これを韓国の保守マスコミが、北韓が戦争を挑発しようとしていると解釈し、火に油を注いでしまいました。ですから韓半島の情勢が、最悪の状況になっていったのは、この様な認識の違いによるものでした。アメリカが攻撃してきたら、ソウルを火の海にしてでも最後まで抵抗するという北韓の発言は、「ですから最悪の事態を避けるために、対話をしよう。」という信号が隠されていました。

金日成死去直後、韓国の雰囲気は金泳三大統領が「(金主席が死去した)遺憾です。」という発言を批判するくらい、とても冷たいものでした。この様な中で、朴普熙氏の弔問問題が起こりました。当時世界日報社長であった朴普熙氏は、文総裁から次の様な内容の電話を受けました。

「金主席死去の話を聞きましたか。91年度に私を招待して、兄弟の契りを結んでいるので、このままではいけない。あなたが私の代わりに平壌に行って弔問をしなさい。これが金正日世代と友好関係をもつことにつながり、国にとっても有意義なことです。」

これに対して朴氏は「北韓では外国の弔問を一切受けないという報道がありました。」と異議を唱えました。これに対して文総裁は、「なに! 行けないだと? 私が送る人は違う。もし断られたらアンノッ河を泳いで渡ってでも行きなさい。」という風に叱責しました。

弔問問題の真実

朴普熙社長は北京に飛んで、チュチャンジュン北韓大使の案内で北韓大使館に設置された金日成の喪屋(もや)を弔問しました。そして金正日秘書から入国許可が出るまで待機し、平壌に入って世界平和連合文鮮明総裁と、世界平和女性連合韓鶴子総裁の名前で、弔花を金日成の喪屋の前に捧げ、金正日秘書に弔意を表しました。

7月20日、金日成広場で追悼式が行われた後、金正日秘書は、再び朴普熙社長に会って「金日成主席は文総裁をとても信頼していました。もう一度お呼びして、白頭山に熊狩りに行きましょう。」と言いました。朴社長が「金主席の遺志を受けて、南北頂上会談を必ず推進して欲しい」と話すと、金秘書は「当然、そうします。」と答えました。

朴氏の弔問は、「ソウル火の海」論に刺激を受けていた国内保守派を刺激しました。朴氏は1950年陸軍総合学校を終えて任官し、中佐で退官したので、保守的な人物に分類されていました。それでも朴氏はもちろん統一教全体を、色メガネを通して見る人が少なくありませんでした。この様な糾弾する雰囲気は、統一教の対北事業を完全に中断させる要因になりました。というのが、朴普熙氏の話でした。

「我々は対北事業に関連して根回ししてきた。弔問訪北の時も安企部の高位幹部に通報して、彼から(北韓状況を知るためにも)承諾を得て行きました。ところが国内保守マスコミが私の訪北を批判し始め、金泳三大統領も不快感を表し始めたため、彼らの立場も考えて沈黙を守りました。私は訪北に必要な処置を全てしました。国内マスコミが作った険しい雰囲気のために4年近く韓国に入れませんでした。」

金日成死去の翌年1995年6月、金泳三政府は北韓に米を支援しました。その時、北韓側が米の輸送船シアペックス号(韓国の船)に強制に北朝鮮の国旗(インゴンギ)を掲げるという事件を起こしました。そのために金泳三の対北柔和政策を批判する声が高まりました。

この事件直後に行われた地方選挙で、与党は惨敗しました。この事を契機に金泳三大統領は対北柔和論を完全に諦めて、強硬論(吸収統一論)に転換しました。1年後の96年9月、北韓の鮫級潜水艦が江陵(韓国東海岸の都市)海岸に座礁して、国を騒がせたことも吸収統一論を強化する要因になりました。

統一教の対北事業はストップしてしまいました。朴普熙氏が中国広東省で推進したパンダ自動車工場建設も中国政府が「100%外国人投資法人を中国に作ることができない」と通達してきたために中断してしまいした。朴普熙氏には相当な打撃でした。朴普熙氏は「パンダ自動車工場用地として購入した土地を遊ばせていた。今になって電子産業体を誘致しています。」と明らかにしました。

禍不単行という統一教の不運はここで止まらなかった。統一教は国内で14の企業を運営していましたが、97年末のIMF経済危機の為に統一重工業と?一和など、主力5社が法廷管理(会社更生法)に入るようになりました。

金剛山開発権は現代グループに

98年、金大中政府が出帆してから、金剛山開発事業権が突然現代グループに渡ってしまいました。統一教に与えた金剛山開発事業権を現代に与えたのは金容淳亜太委員長でした。これにより金日成主席が署名した統一教の金剛山開発事業権と、亜太の金容淳委員長が署名した金剛山開発事業権が併存するようになりました。韓国の政府が許可したものは、現代グループの金剛山開発事業でした。現代に金剛山開発事業権を与えた亜太は、94年5月、アメリカ・日本など、アジア・太平洋地域の未修交国家交流を強化するために作った労働党の統一前線部の外郭団体です。初めはアメリカ・日本などと関係を改善することを主力としました。時間の経過と共に、朝平統に代わりに南北間経済交流を引き受ける組織に発展しました。亜太出帆初期、亜太は統一教とは仲が良かった。94年金剛山国際グループを作るとき、統一教と亜太が各40%を投資して、朴敬允氏が20%を投資したので、2つの組織は同業者です。ところが亜太が統一教側を無視して、現代グループに別途金剛山開発事業権を与えてしまいました。

韓国政府は、現代グループの金剛山開発事業はすぐに許可しましたが、統一教が再度提出した金剛山観光事業は過当競争になると理由で許可しませんでした。統一教側は北韓亜太に対し「なぜ、金主席遺言事業である金剛山開発事業を現代に与えたのか。」と抗議することも出来ました。しかし彼らは全然問題を提起しませんでした。統一教は一般企業と別の理由で対北事業を行っていたためです。

DJ(金大中大統領の略)の包容政策はナイーブ

統一教の対北包容政策は、金大中政府の対北包容政策の先を行っていました。金大中政府が行っている試行錯誤を彼らは既に通過していました。統一教側は、金大中政府の対北包容政策をどの様に見ているのか。98年5月リトルエンジェルス訪北公演の為、走っていったある実務者の話です。

「北韓は簡単な相手ではない。彼らは国益のためにはアメリカに向かって自殺戦争も辞さないと宣言して、カン−カルチ会談では背水の陣で臨みました。北韓は経済だけ崩れていて、他は崩れていません。資本主義体制の金大中政府は、我々の国民は経済が崩れたら全てが崩れてしまうと考えると思います。しかし北韓は経済的にとても悲惨な状況の中でも、遊撃隊すなわちパルチザン闘争をし、日本との戦争(抗日闘争)、アメリカとの戦争(6・25)に勝ったと自己満足しているために、経済的厳しさを我々が考えている程深刻に思っていません。金大中政府は、北韓は経済が崩れたので全てのものが崩れたと判断し、対北包容政策を拡げているようです。北韓を単純に考えて包容政策を拡げたら大変な状況が起こることもあります。」

「北韓は唯一、統一を夢みている国です。2300万住民の中で、2000万が死んでも統一をするというくらい、統一に対する情熱が強いので、今まで我々はこれを北韓が戦争を起こし、統一するという方面だけ解釈してきました。北韓は自分なりに明確な統一意志と政策を持っているために、統一に積極的です。問題は、南側では北韓が考えている統一がなんなのか、正確に知っている人がいないことです。今、両者が統一政策を拡げていけば、その差が明確になると思います。その時に慌てて対策を準備するなら、金大中政府の対北政策は、金泳三政府の時の包容政策のように国民的批判に直面し、揺れながら崩れることになると思います。金大中政府のブレイン達は、北韓を研究し直さないといけません。


<第2部 北韓は兄「エサウ」、南韓は弟「ヤコブ」>

多くの人々で混雑しているソウル市内の主要ロータリーを通ってみると、若者達が「純潔!純潔!」と叫ぶ姿を見かけます。真面目な顔で町中で純潔を叫んでいる人たちを見かけたなら、間違いなく彼らは統一教の信徒です。彼らは「結婚する前は、絶対性関係を持たないで、結婚後は絶対に浮気をしない」という主旨で純潔運動を繰り広げています。

「純潔!純潔!」

純潔を強調するほど、家庭を重要視しています。統一教の正式名称は、何回か変更になりました。今は「
世界平和統一家庭連合」に定められています。統一教の人たちは、これを略して「家庭連合」と言っています。家庭連合と名前を付けるほどに、統一教は家庭を重要視しています。ですから純潔と家庭は統一教を維持する両輪です。

統一教側は対北事業をするようになった理由を、彼らだけの独特な聖書解釈の中から見出しています。統一教の教理を対北事業に限って追跡して見るようにしよう。統一教の人たちは聖書を基本として信仰生活をしていますが、無理にキリスト教に分類される事を望んでいません。世界日報、孫炳禹編集人は、「統一教を西洋宗教だと考えてはいけない。」と言いました。

「イスラエルは、東洋と西洋の境界地帯です。我々は、イスラエルで生まれたイエスは西側に行こうとしたのではなく、本来は東側に行こうとしていたと見ています。聖書の福音と、東洋の価値観が出会うになっていましたが、ローマ兵がイエスを十字架に架けて殺しました。

結者解之という問題は、原因をつくった人が解かなくてはなりません。それで復活したイエスは弟子達をローマに送るようになりました。この様にして西側に伝わっていったこの宗教が韓国に来るのに2000年かかったと我々は見ています。すなわち再臨のイエスが来るところが韓国であり、韓国がすなわちイスラエルであるのです。」

統一教はイエスをメシヤとして見ていますが、統一教には十字架がありません。統一教は十字架を死刑執行に使う道具に見たため、重要視しないのです。この根拠で彼らはイエスの右左で処刑された強盗達が、イエスと共に十字架で死んだということを例としてあげています。しかしキリスト教とカトリックでは、イエスが復活したところが十字架だったので、十字架を重要視します。この様に一般キリスト教と統一教の聖書解釈には、相当な差があります。孫炳禹氏の話です。

聖書で人類の始祖であるアダムとエバが、善悪の木の実を食べたという内容がありますが、私達統一教はこの2人が神様から祝福(結婚)を受ける前に性関係を結んだことと解釈しています。神様の祝福(結婚)を受けることは、今風に言えば2人が純潔を維持したまま満20歳を越え、肉体的に完全な成人になった後、両家の親からの祝福を受け結婚することを言います。善悪の木の実を採って食べたということは、その反対、すなわち肉体的にも完全な成人になっていない思春期の時に親も知らずに性関係を結んだという意味です。今風に表現すれば、淫乱罪を犯したことになります。

この様なアダムとエバが産んだ子供がカインとアベルで、ご存知の通りカインがアベルを殺しました。殺人罪を犯したのです。この淫乱と殺人が人間を悩ませる原罪です。これを解決しなくては、どんな問題も解くことが出来ません。淫乱罪を犯さない方法は何でしょうか? 精神的、肉体的に純潔を守ることです。精神的、肉体的に純潔を守ることです。神様の祝福を受け結婚するまで純潔を守ることが、この様な苦痛から逃れる方法です。兄が弟を殺した殺人罪を避ける方法は、寡黙な家庭を維持することです。統一教が純潔運動を拡げて、自らを家庭連合と言っていることはこのためです。」

淫乱と殺人という原罪

孫氏は「淫乱と殺人が世界的に拡大しながら、多くの葛藤を産んだ。自由主義と共産主義の対立もその延長線上にある。聖書を勉強する宗教人としてこの様な葛藤を無視したら、神様のみ旨を捨てることになります。」と言いました。彼は「弁証法的唯物論は歴史の中に生きている神様の意志を認めないで、人間の意志だけを強調しているので過ちです。ですからこの様な弁証法を土台に誕生した共産主義も誤った理念です。」と語りました。

前でも説明したように、統一教が共産主義に反対するという視点を初めて表しました。それが1968年でした。1・21事件とプエブルロ号事件、ウルチン・サムチョク事件が起きて、韓半島の情勢がとても緊迫していました。この様なとき、統一教は国際勝共連合を創設しました。

文鮮明総裁は組織の鬼才です。組織を作ってこれを動員する事を知っていることは、人間が持っている力を何百倍にも生かす方法を知っているという事です。勝共連合創設後、文総裁は共産主義の勢力が大きくなると説きつつ、信徒達を中心として組織を作って対抗するようにした。

1980年代中頃、大学側全大協などが中心になって、急進左翼運動の嵐が吹き荒れました。この時統一教は大学生組織
の全国大学原理研究会(CARP)と基督教学生(ICSA)を動員し、彼らと論理の闘いをしました。全大協が誕生するや否や、2つの組織を統合して統学連を作って対抗しました。統学連に対して全大協側は「5共政権の走狗」、「アメリカのスパイ」と非難し追及しました。

当時、ワシントンタイムズ社長であった朴普熙氏は、アメリカの議会の
フレイザー小委員会に出席し、韓国安企部の工作員の疑いを掛けられ調査を受けました。朴普熙氏がフレイザー小委員会で議員たちと論戦をしたのは、時々国内でも報道されたことがありました。86年全斗煥政権が4・13護憲処置を発表するや否や、大学が大きく揺れました。左派運動に否定的な学生達さえも民主主義を守護するために立ち上がったので、学生運動は史上最大の波に乗りました。

ヤコブとエサウの和解

このとき統一教側は朴普煕氏を呼び入れて、各大学原理研究会で招請する形で講演会を行いました。アメリカで対立し争っていた朴普煕氏がアメリカの走狗で、極右学生の団体の招請を受け講演するのは妙な感じを受けます。そのような理由で朴普煕氏の講演は関心を引いたのですが、この位置で朴普煕氏は左傾思想を猛烈に批判したのです。

高麗大学で、講演会をするようになった日、ついに不祥事が起こりました。朴普煕氏の講演会場(高麗大大講堂)に押しかけてきた学生たちが、朴普煕氏がフレイザー委員会で証言するビデオを見せていたスクリーンを裂きながら、原理研究会の学生たちと肉弾戦を起こしました。

そのようにして出てきた妥結点が、高麗大学生会館前にある民主広場に移って、討論会を行うということでした。学生たちは朴普煕氏に向かって「お前はアメリカのスパイだ」と攻撃しました。これに対して朴普煕氏は「私はフレイザー小委員会でKCIA(韓国安企部、元来英語名称はNSPである)のスパイではないかと調査を受けたのだが、どうしてアメリカの走狗になることができるか」と反論しました。討論が激化すると、卵が投げつけられて、朴普煕氏が原理研究会学生たちの助けで校門の外に退避する事態が起きました。

統学連所属学生たちは地方都市を廻りながら、勝共講演会をしました。警察署の大公(今の保安)と所属刑事たちは、しばしば捉えられてくる運動圏学生と理念論争を起こしたりもしました。刑事たちが賢い学生を「理論」で勝つのは不可能です。刑事たちは統学連指導部に助けを要請し、統一教の理念家に論戦させました。このように勝共と反共をモットーに左傾勢力と争ってきた統一教は、87年に南北統一運動国民連合を出帆させ、勝共から統一に運動を転換しました。

文鮮明の兄弟統一論

このとき方向転換の哲学的軸になるのが文鮮明総裁が語る「
兄弟統一論」でした。兄弟統一論は聖書創世記に出てくるイサクの息子であるエサウとヤコブの話を根拠にしたものです。孫ビョンウ編集員の説明を聞いてみましょう。

「エサウとヤコブは双子ですが、神様は弟であるヤコブを選択されました。心が傷ついたエサウが殺そうと迫ると、ヤコブは故郷の外に逃げました。ヤコブは21年間、放浪しながら、たくさんの財産をつくりましたが、彼はこの財産を持って故郷をたずね、エサウに与え、兄と和解をしました。和解は、殺人という人間の原罪から解放される道です。このようなヤコブが天子と相撲をして勝つと、あなたが生きるところをイスラエルにしなさいと言う啓示が与えられました。イスラエルは勝利者と言う意味です。

イエスの教えが2000年の間、西側をくるっと廻って韓国に到着したので、韓国がすなわちイスラエルです。イスラエルの主人はヤコブですので、ヤコブはこの地で兄エサウと和解しなければなりません。南と北を比較すれば、根本的に善良なのが南側です。南側がヤコブで北朝鮮はエサウです。経済的にも南韓がずっと余裕があるので、南韓は北韓を積極的に助けるのがすなわち、祖国統一という和解を持ってくる道です。統一教が内部の苦しさを無視しても北韓を助けたのはこのような招命意識のためです。

偶然の一致かもしれませんが、91年12月の文鮮明−金日成会談で金日成が文総裁に「我々は兄弟の契りを結びましょう」と言ったのも、北韓(金日成)はエサウであり、南韓(文鮮明)はヤコブという型を作った要因にもなっています。

孫編集員は、しかし南北和解の主体になるべき南韓が道徳的に堕落しており、問題であると指摘しました。だから純潔運動を展開し、真の家庭運動を展開しているという説明でした。兄弟統一論で方向が定まると、この思想を伝播する道具が必要でした。それで創刊されたのが「
世界日報」であり、開講したのが鮮文大学ですと孫編集員は語りました。鮮文大学には、他の大学にはけっして真似のできない純潔学科がありますが、純潔学科を設置したのは、崩れていく南韓の道徳を守るためですと鮮文大関係者は語りました。

世界のワシントンで進歩的な言論である「ワシントンポスト」紙が威勢を振るうや、ワシントンスター買収し、これを母体として「
ワシントンタイムズ」を創刊(82年)したのと、去る4月のある日、世界有数の通信社だったアメリカのUPIを買収したのも統一教が主張する真の愛と、共産主義は間違っているという思想を伝播するためでした。


その他に、統一教は、日本で「世界日報」、南米15カ国で「ティエンポスデルモント」という週刊誌、エジプトにおいては「ミドゥリストゥタイムズ」という週刊誌を発刊していますが、これも全部同じ脈絡にあります。

まともな父母であれば、カインとアベルの争い、エサウとヤコブの葛藤をといてあげなければなりません。ここで統一教は、真の父母の役割を強調していますが、アダムとイブが純潔を守ったまま、神様の祝福の中で結婚していたならば、人類最初の真の父母になっていたことでしょう。しかしアダムとイブは神様が定めた法を破ったので、真の父母になることができませんでした。

それゆえに人類救援のためには真の父母が必要になるのですが、統一教は文鮮明総裁夫妻がすなわち真の父母だといっています。このような真の父母のもとで結婚することを最高の栄光と思っているので、彼らは文総裁が主催する合同結婚式に積極参加するのです。このようにして結婚した夫婦はまた、真の父母になり、これが広まれば、全ての人が真の父母になる「万人メシヤ論」に発展するのです。

文総裁の後継者は三男になりそう

世の人々は、朴普煕氏が統一教のNo.2という固定観念を持っています。しかし、朴普煕氏を含めた統一教幹部たちはこれを否定しています。統一教は文鮮明-韓鶴子氏を初代の真の家庭と見ていて、この初代の真の家庭が新しく(合同)結婚した36家庭を祝福したことにより、
36家庭が出てきて、続いて72家庭祝福したことによって72家庭、同じような方法で120家庭430家庭が出てきたと説明しています。

このような構図なので、文総裁死後、統一教を率いるのは初代の真の家庭である文総裁の家庭から出てくるしかないという意見を見せています。すなわち文総裁の子女の中で、後継者が出てきて、朴普煕氏を初めとする統一教幹部たちは、文総裁とその後継者を守り補佐する後援者になるという説明です。文鮮明-韓鶴子氏夫妻は13名(6男7女)の子女を生みましたが、このうち2人の息子が亡くなっています。

文総裁の長男はアメリカニューヨークの有名なオペラハウス代表活動に専念していて、文総裁の位置を相続する様子はありません。朴普煕氏の娘(フンスク氏)と約婚した次男は交通事故で死亡したために、統一教では異変がない限り三男の顯進氏が母の韓鶴子氏と共に文総裁以降、統一教を率いていくと思われます。アメリカのハーバード大学を出た文顯進氏は、現在世界原理研究会会長の任に付いています。

統一教は、文総裁当代に「風のように」興りました。文総裁がこの様に早く統一教を成長させた理由は何でしょうか。不思議に韓国現代史では、無名の人がその当代に成功を収める例が多く見られます。代表的なのが、貧しかった農家に生まれた青年が、クーデターによって執権を握り、死ぬまで大統領をした朴正熙氏です。中国共産党のパルチザン組織リーダー出身の金日成と、家出少年から韓国最大のお金持ちになった鄭ジュヨン氏(現代グループ会長)もその例に挙げられます。

北、自由選挙を提議することができると

この様な人物の中、一部は後継者選びに失敗し、その人物の死後、彼が作った組織が風のように消えて行きました。朴大統領夫妻の悲劇的な死や、朴チマン氏(朴大統領の息子)の不幸がその例です。現代グループも二世達の闘いで本当に鄭ジュヨン氏が創業したことをそのまま守ることが出来るかどうか、心配をしています。北韓は予想を破って金正日国防委員長に権力の引継が良くできました。しかし、それも現在までの現象であって、これからのことは予測することが出来ません。

文総裁は80歳で相当な高齢です。統一教は文総裁死後、風のように消えてしまう不幸が起こるのではないだろうか? この様な疑問が浮かぶのは、統一教が心血を注いで推進してきた統一事業の後継体制連結過程が大きく歪曲することも考えられるからです。これに対し統一教のある関係者は、この様に語りました。

「最近の南北問題をもう一度よく考えてみましょう。金正日委員長は訪北した言論社社長団に「漢拏山(ハンラサン)で朝日を見たい。全州にある全州金氏始祖の墓をお参りします。」と語るなど、とても転向的な姿勢を見せています。南北統一は予想外に早く、それも北韓の転向的な提議によって成されることも考えられます。金正日委員長が突然南北間自由総選挙で統一をしましょうとすれば、私達はどの様に対抗するのでしょうか。今、太陽政策を強調してきた金大中政府としては、この様な提議を断ることはできないと思います。すなわち共産党を合法的な政党として認めなければなりません。

そして、統一韓国の指導者を選ぶ選挙が行われたら、南韓では与党と野党で数名の候補者が出てきますが、北韓では金正日一人だけ出馬すると思います。南韓の候補者達が北韓に行って遊説する様に、金正日も南韓に来て遊説すれば、どの様になりますか? 88年に4人の候補者が闘った13代大統領選の時、金大中候補が打ち出したのは「4者必勝論」でありました。ホナン(全羅南北道)固定票がある金大中候補者としては、候補者が4人立ったら他の地域の票が分散してしまい、自分が当選できるという「4者必勝論」主張しました。(この様な主張にも関わらず、金大中候補は落選した。)

それと同様の戦略を金正日委員長が使うことができます。もし、彼が統一韓国の指導者になれなくても、彼はいくらでも生き残ることができます。統一韓国の指導者を選ぶ選挙に続き、韓国統一の国会を構成する総選挙が行われれば、北側では共産党一色で当選できるし、金正日委員長はその党の党首になることができるからです。平和統一という巨大な目標は達成したとしても、何か気まずいこんな状況に私達はどの様に対処するのでしょうか? しかし統一教だけは文総裁が亡くなっても、良く対処できるように準備しています。」

共産党に対立する選挙組織準備中

彼が語った対策というのは、共産主義思想に伝染になってはいけないから国民を説得する事前選挙運動と似ている理念運動であります。彼は「統一教は1980年代から全国250カ所の市・郡・区と、3000カ所の邑・面・洞で、共産主義理念が誤っていると説明できる組織を作っておいています。南北自由選挙が行われ、共産党候補者が南側に来て、共産党理念を伝播する選挙運動を行った時に備えて、20年前から共産主義思想が誤っていると説明できる組織を維持しています。」と語りました。

南北自由選挙が実施されたら、南北自由往来が許可されるしかありません。韓国企業が対北経協に関心があるのは、北韓の人件費と土地の値段が安いからです。ところが自由往来によって人件費と土地の価格が安いというメリットが短期間で消えてしまったらどうなりますか? 統一教が現政府の対北包容政策を危険だと評価するのは、現政府がこの様な事態に全く備えずに北韓と接触しているからです。

統一教の対北事業に対する取材を終えながら、記者は「統一教が自信を持って北韓と接触しているのは彼らなりに万全の準備をしており、金大中政府と現代グループはこの様な統一教を注目する必要がある。」と考えています。

アメリカ式異性交際は離婚のための練習

統一教と聞けば、すぐ思い出されるのが
合同結婚式です。自分達が恋愛をして「この人と結婚できなければ、生きていけない。」と言って結婚した夫婦でも性格の違いによって別れる人も少なくありませんが、文総裁が指定してくれる人とそれも団体で結婚をして、本当に幸せなのか疑問が生じます。その上に合同結婚式を通し外国人と結婚した韓国人はどの様に住んでいるのでしょうか。

現在鮮文大学教授である金リン氏(52、結婚前の名前はリン・ルイス・トプラー)は、韓国女性よりも韓国的な女性として何回か放送で紹介された有名な人です。金リン氏は統一教信徒として文総裁が主催した合同結婚式を通して延世大学英文科を卒業した今の夫、金ジョンムン氏(52)と結婚しました。金リン氏はキリスト教(ルター教)信者の家庭に生まれ、アフリカの宣教師になろうとしてローレンス大学仏文科に進学しました。この時彼女は「神様も知りたかったし、また良い男性にも会いたかったです。ところが男性にあったら神様と遠くなるような気がしましたし、神様の近くに侍ったら男性と会うことはいけないという気がしました。神様を知っている男性と結婚しないと、私の良心の通りに生きることができませんが、その様な人と出合うことはできませんでした。」と言いました。

この頃、彼女は純潔を強調する統一教と接しながら「時が来れば神様が、神様とひとつになった男性と出会わせて下さる。」と信じ、統一教に入り、韓国において信仰生活をしました。合同結婚といっても、くじ引きみたいに無作為に組み合わされるのではありません。文総裁を中心として、ある統一教指導部が互いに似合うような人を薦めて、修練会を通して、しばらく会う機会をもちます。そうしながら一方がイヤだとすれば、別の相手を推薦します。この様にして結ばれたカップルが数多くいます。金リン氏の話です。

「初めて韓国に来たとき、大部分の韓国人はお見合いで結婚するという話を聞いて、「付き合ってもいない人と出会って、どのように結婚生活を維持するのか。韓国は離婚率が高いのではないか。」と考えましたが全く違いました。アメリカでは将来の良いパートナーを探そうとすれば、青少年期に異性交際を沢山する必要がある文化をもっています。ところが青少年期の異性交際がフリーセックスに流れ、親たちは子供達がフリーセックスに溺れ、壊れてダメになることを心配して親密な交際を止めさせるので、自然にアメリカの青少年達は、ある程度付き合っては別れてしまいます。この様な交際は、良い結婚には繋がらず、安易な離婚に繋がっています。この様に離婚が多いので、アメリカ社会はどんどん不安になっていました。家庭の崩壊が社会の崩壊に繋がりました。私はアメリカという超大国が崩れたら、それは他の超大国によるのではなくアメリカ内部からの崩壊によるものだと考えています。」

金リン氏は、この様な考えをもって文総裁に全てのことを任せたので、今の夫、金ジョンウン氏と出会わせていただいたことを、とても満足していると語りました。