2.従来の科学常識を超えよう

 ●霊界はいずれ科学で解明できる

 霊という世界は地上の時間・空間を超越している。だからテレパシー瞬間移動という事もありうる。しかし、従来の科学常識に慣れている人々は、否定的な見解をもたれるかもしれない。なぜなら現代物理学では、アインシュタインの学説によって光速(秒速30万キロ)を超えるものの存在を主張する事がタブーになっているからである。
 ところが、最近になってアインシュタインの相対性理論をはじめとする現代科学の限界を自覚する科学者も増えはじめてきた事も事実である。たとえば「超光速」の可能性を主張する学者はかなりおられるようだ。相対性理論によれば、運動する物体が光速に近づくとその質量が無限大となってしまい、絶対に光速を超える事はありえないわけだ。ところが、たとえば橋本健博士によれば、重力による加速力に関してだけは例外で、質量が増えてもそれに反比例して加速力が減ることはないので、相対性理論に矛盾する事なく光速を超えられる、という(『超物理学入門』P.34)。

 実際、超光速粒子(「サイ粒子」「タキオン」「幽子」等と呼ばれる)の存在を考える科学者は案外多い。関英男博士などは、サイ粒子の働きで超能力や霊現象を説明しておられる。また、エレキギター等の発明で有名な政木和三博士は「真空」とは何も無いのではなく、「バクトロン」という電子の10のマイナス20乗の大きさの粒子がつまっているのだという。もちろん仮説にすぎない。しかしこの説明でスプーン曲げも超能力も説明可能だという(『新天地』1993年10月号)。
 考えてみれば、物質は原子核の周囲を電子が回るという形の「原子」で構成されているが、原子核と電子の大きさから考えて、両者間の距離はあまりにも遠い。だから、物質といっても実質的には99.99…%以上が空間というべきものなのである。物質とは空間の中に素粒子が回転しながらプカプカ浮かんでいるようなものかもしれない。そしてこの空間そのものの性質にこそ重要な鍵が隠されているのではないか。その意味で「空間物理学」を提唱されるコンノケンイチ(今野健一)氏の理論(同化性原理ともいうべきもの)などは今後注目されるべきである。
 私は近い将来、相対性理論の限界が明確に示されるだろうと思う。そしてそれをはるかに越える理論が構築される事を確信している。

 ●人間はサルから進化した?

 人間が「神の子」と言われるほど優れた存在であるという見解に対して、人間がサルの子孫にすぎないという人もある。ある人は言う。昔、一部のサルが木から降りてきた(サルも木から落ちる!)。そして二本足で歩くようになると、脳の重量が段々と増えてきて、何とコンピュータ以上の機能を搭載するようになった、と。いわゆる進化論である。これもかなり根強い偏見であろう。
 少し冷静に考えればすぐにわかることだが、二本足で歩く動物は何もサルに限った事ではない。一時有名になったエリマキトカゲなどは、二本足で歩くどころか時速30キロぐらいで走り回るのだ。しかもあの姿を何百万年も続けているのだから、もしも二本足で歩くことと頭脳の発達が関係しているのなら、エリマキトカゲの脳は人間の脳よりもはるかに発達していないと「二本足=脳の発達」の理屈に合わないであろう。

また、イルカは二本足で歩いているわけでもないのに、その知能はサルや犬よりもはるかに上ではないかとも言われている。私はイルカの知能について、サルどころではない何かもっと倫理的な性質すら感じるものがある。すなわち、二本足と脳の進化の関係など、ほとんど根拠をもっていないというべきなのである。

 御自分の先祖がサルだと主張する人々は、先祖供養の際にサルをお祭りするのが正当ではないかと思う。私はむしろ、長い人類歴史の中でサルを祭る宗教がついに主流を占める事がなかったという歴史的事実こそ、人類の先祖がサルと直接結びつかない事の有力な根拠となるのではないかと考えている。

 進化論は所詮「風が吹けば桶屋がもうかる」式の連想ゲームの域を脱していないのである。確かに、下等なものから次第に高等な存在の出現にいたったという歴史は事実であるが、その現象を自然淘汰や突然変異で説明する進化論には限界があるというべきだ。
 また、私の見るところでは進化論はそれ自体において大きな自己矛盾を含んでいるのではないかと考えられる。なぜならば、サルが木から降りてきた、という現象はあくまでも偶発的なものであり、何ら必然性をもっていない以上、下等なものから次第に高等なものになっていくという現象(進化)そのものの「必然性」が説明できないからだ。
 だから、進化論は「進化」という現象の科学的必然性を説明しようとするものなのに、説明すればするほどかえって驚くべき偶然の連続を認めねばならなくなるのだ。つまり、論を進めれば進めた分だけ科学性を失う、という自己破壊的性質をもっているのではないかと考えられるのである。ところがダーウィン先生以来、みんなこの論法に騙されて来たのだ。

 ひとたび進化論的な説明に慣れてしまうと、その説明方法にみんな毒されてしまい、キリンの首は昔は相撲取りのように短かったのだとか、ゾウの鼻は昔はダンゴ鼻だったなどという、冷静に考えれば馬鹿みたいな事を無批判に信じるようになってしまう。自然というものはそんなに思いのままに変化するものではないし、個体の獲得形質というものは簡単に子孫に遺伝するものではない。花びらそっくりのハナカマキリや、人間でも完全に騙されしまうほど枯葉そっくりのカレハカマキリなどは、進化論では一体どうやって彼らが変形したというのだろうか。どんな「笑い話」が登場するかむしろ興味深い。つまり、進化論は説明すればするほど科学性を失い、笑い話の類いに転落してしまう、という致命的矛盾を抱えているのだ。

 『人類は二度生まれた』という著書でユニークな古代文明論を提唱されている前川光氏は「ダーウィン自身も『あらゆる生物の中で進化論に一番あてはまらないのは人間だ』といっているし、続いて進化論を発表したアルフレッド・ウォーレスも『人間だけは、なぜか自然淘汰の原理がはたらいていない』という。…進化論は、事実によって証明された確固たる理論だと錯覚している人が多いが、実は神による天地創造説に対抗して科学者が立てた一つの学説にすぎない。…進化論を信ずるのは、他に代わるべきものがないからである」(同書、P.283 〜284 )と指摘しておられる。
 ともかく、人間はいわゆる突然変異や自然淘汰で生じたものでもなく、サルが歩き回ったために発達したものでもない。進化論を教科書で教え込まれてきた方々は、もう一度先入観を捨てていただきたい。

 ●宇宙の中で人間は特別な存在である

 また、進化論と共に根強く信じられている科学常識として、人間などは宇宙の中で実にちっぽけな存在だという「常識」がある。これは、つつましく謙虚な見解のようなので、多くの支持者があると思われる。そして、そういう考えから宇宙には人間よりも知的に高度な生命体(宇宙人)が存在するという発想にも結びつくのである。しかし、本当にそうだろうか。支持率の高い見解なので、少し検討しておこう。

 宇宙は広いのだから、他の星に行けば人間よりもっと知的にすぐれた存在(宇宙人)がいるに違いない、と多くの人が言う。確かに夢とロマンに満ちた発想である。しかしいくら宇宙が広いといって騒いでも、それは現在使用されている人間の脳のごく一部がとりあえずそう感じているだけであり、もしも人間の脳機能が全面的に活動を始めるような事になれば、全宇宙の構造を理解するばかりか、超次元の時空間(霊界)まで掌握してしまう事になるかもしれないのだ。その時、人間は宇宙における自分の偉大な位置やとんでもない使命を明確に悟るようになる、とも考えられるのではないか(そして夢とロマンという点でもこちらのほうが勝っている)。

 人間が宇宙において特別な存在であるという根拠の一つに、人間が誕生した地球そのものが奇跡に満ちている、という事実を指摘しなければならない。宇宙の構成物質から考えて、たとえどんな下等な生物でも、生命というものが誕生するためには水が安定した形で存在している事が最低条件である。ところが地球という星は「水の惑星」と呼ばれるように、その水を何十億年もの間にわたって保ち続けているのである。
 太陽と地球の距離がわずかでも遠すぎたり、逆に近すぎたりすれば、水は液体として存在する事はできなくなってしまう。水の研究で著名な林秀光博士は宇宙規模で水が存在する数学的確率が100億分の1であり、ほとんど奇蹟に近い確率である事を指摘しておられるが、博士によれば水の構成物質である酸素と水素こそが、人間の病気と健康の全ての鍵を握っているという(『小さな水があなたを救う』P.208 『水があなたの病を癒す』P.63)。水と生命は切っても切り離せないのだ。

 さて、地球は生命を誕生させた奇跡的な星である。海の生物から始まって、驚くほど多種多様な植物が生じ、色とりどりの花や昆虫、愛らしい動物、思わず息を飲むような大自然が生きている…。その生命を何十億年も育み続けている地球は、まさに宇宙における生命の母胎であると表現する事も許されるのではないだろうか。その地球の歴史の中で突如として誕生した高等生物がすなわち人間である。
 水素に酸素がくっついているだけの単純な分子構造である水というものが発生するだけでも気の遠くなるような奇跡的過程を経ているのだ。オゾン層というものが地球の日傘の役割として発生したのも奇跡であり(オゾン層が生じなければ地上で人類が誕生する事はありえない)、それらの全ての奇跡の組合せの確率を前提にした上で、大型コンピュータ以上の高性能な頭脳を搭載した人間(しかもその機能の大部分が未使用)が誕生するという超奇跡の起こる確率を、他のどの星に求める事ができるだろうか。そういう奇跡が宇宙のあちこちで起こっていると安易に考えるほうが、全く非科学的な発想であるという事に、当人である人類自身がそろそろ気づくべき時が来ているのではないだろうか。

 また、中には宇宙における星の数をことさら問題にする人もおられる。つまり、宇宙には我々が住んでいる銀河系だけでも約100億個の星があり、そういう銀河が1兆個以上あるといわれているのだから、その中でゴミのようにちっぽけな人間が宇宙で一番知的に高度だとはとても思えない、という考え方である。一見するとこの主張は説得力があり、また謙虚な印象のする意見なので支持する人も多いのかもしれない。

 しかし、数字の魔力にごまかされてはいけない。科学者が何兆とか何千億とかいっても、その数字に驚くのは、既成概念がぎっしり詰まった我々の脳のごく一部の神経が興奮するからにすぎない。考えてみてほしい。地球上のたった一人の人間の細胞の数ですら60兆から100兆個あるといわれているのだ。しかもその一つ一つが生き生きと活動しているのだ。むしろ人間という存在そのものが全宇宙に匹敵する、いやそれ以上の驚きと奇蹟のかたまりである事に気づくべきなのである。
 エックルス博士は宇宙人(人間以上の知的生命体)の存在に対して否定的な考えを述べながら、「やはり、人間はこの宇宙で他にかけがえのない存在なのではないだろうか−(中略)−すべて宇宙に理性ある心をあらしめて、宇宙の存在を意味あるものとする、他にかけがえのない神秘の賜物なのではないだろうか?」と語っておられる(『心は脳を超える』P.130 )。博士は人間の脳機能を徹底的に研究され、そこに神秘的働きを認めざるをえなくなったのである。それが脳科学者の本音であろう。

 ●UFOとは何か?

 人間よりも高度な存在はないという見解に対して、宇宙人存在論者は多くのUFOの目撃報告や宇宙人との接触報告を根拠に宇宙人の存在を主張されるかもしれない。実際、そういう報告は多いし、私自身その研究の熱心さには敬服に値するものがある事をよく知っている。では、UFOの存在についてどう考えるべきであろうか。
 私はUFOや宇宙人というものは、宇宙のかなたからやってきたものではなく、何か霊的現象と結びつくもののように思う。その根拠として「あそこにUFOが飛んでいる!」という人がいても、その場にいる人で見える人と見えない人がいるという事が多いという事実がある。また、一度宇宙人に遭遇した人はその後何度もコンタクトをもつ傾向もあるが、それは何らかの霊的回路が形成されたものと考えられる。そして、宇宙人が白昼堂々と現れて挨拶する事はほとんどない。そして、このような傾向は全て霊現象にも共通するものである。
 超常現象の研究家としてコリン・ウィルソン氏ほど有名な人もいないだろうが、その彼もUFOについて宇宙からやって来たものではないと考えている。彼は「私自身の結論は、UFOとは、単なる幻覚とは異なる、ある種の心霊現象だというものである」と述べているのだ(『Bart』1993年1月25日号)。
 ともかく、現段階としては人間そのものの正体すら明確に自覚できていない状況なのに、いたずらに宇宙人を有難がったり、反対にやたらと恐れたりする事は避けるべきであろう。

「人間始祖」に関する議論

 ここで、人間がサルから進化したものではないにしても、人間の始祖が地球上のどこかの一角で誕生し、その一人ないしは一組の夫婦から今日の人類に広がったという意見に対しては異論もあるかもしれない。実際、人類が数箇所で発生したという学説も有力であるようだ。この問題について、我々はどのように考えるべきであろうか。人類の始祖は一人(または一夫婦)だったのか、それとも多数存在したと考えるべきなのか。

 まず考えるべきことは、もしも神(創造主)というような存在を認めず人間というものが複数の場所で自然発生的に誕生したと仮定しても、その発生原因はおそらく「突然変異」によって説明するしか方法がないだろうということである。
 なぜなら、人間はサルよりも優っているとはいえサルとは違って人間の脳はまだまだ未使用の部分があまりにも大きく、その膨大な未使用の部分が存在する理由については突然変異ぐらいしか理論的な説明の方法がないからである。サルが歩き回って・・・というのはもはや論外としよう。

 しかし、よくよく考えていただきたい。DNAにどのような大異変が起こったと仮定しても、もし異なった場所で別々に人類が発生したとするならば、お互いの意志の疎通がこれほど十分に可能であるのはなぜであろうか。しかも人類の意思疎通は複雑で高度である。偶然にしても、あまりにも不可解だというべきではないだろうか。地球上のあちこちで同一の突然変異が起こったとする説は、突然変異という、ある意味では最後の手段的な説明の切り札をあまりにも安易に適用するもので、学説としては悪説であると言わねばなるまい。

 すなわち、人類が一人の人間あるいは一夫婦から出発したという事をどうしても否定せざるをえない事実が実証されない限り、あちこちで人類誕生という超奇跡的確率の突然変異が起こったとする学説は安易に認められてはならない、とするのが科学的な考え方ではないかと私は思う。

 カリフォルニア大学の研究では、細胞内のエネルギー生産器であるミトコンドリアのもつDNAの分子時計としての役割を利用して、世界中の人種から無作為抽出した細胞サンプルを比較調査した結果、人類の系統はアフリカで生まれた一人の女性にさかのぼる事ができる、との結論を得た。その女性は「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている。
 私はこのような研究は今後も詳細に追求されるべきものと考えるが、アフリカという地域の特定はともかくとして、発想において概ね正しい学説であると思うのである。

 なお、宗教的な見地から見た場合、人間始祖はあくまでもアダムという個人でなければならないのだ。なぜならば、天地を創造した神が「唯一神」である以上、その神の“似姿”としてのアダムも「独り子」として出発しなければならないからである。更に、神はアダムという一個の個体に自らの全てを託されたのであり、だからこそアダムが「命の木」という完成像(イメージ)に到達したあかつきには、アダムは何の割引きもなしに宇宙の主人として神と同等の権威をもつ存在となりうるのである。