第2章 究極の深層心理に何があるか  [悪魔の正体]

1.神と悪魔の混血児としての人間

 ●人間の心は天国と地獄をかけめぐる

 人類歴史は、人間始祖アダムが完成人間のイメージである「命の木」に到達し、妻エバと結婚して豊かに実を結んで、神の当初の願いであった「生めよ、殖えよ、治めよ」という要求を満たす、という所から出発すべきであったのだ。そうすれば、人間の持っている驚くべき能力が開花して巨大な真人類文明が完成したに違いない。
 ところが、堕落の罪(原罪)の結果アダムは「神の子」ではなくなり、実を結んだものは当然、堕落の実であった。地上は神の子ではなく、神とは似ても似つかない「別の品種」が繁殖していったのだ。それらは地上で醜い戦争を展開し、淫乱と好色を求める心の炎を消すこともできず、地上の楽園は汚れた血で染まったのだ。

 堕落したといっても、人間を造った創造主はあくまでも神聖なる神であるので、その本心そのものは神的性質や永遠性を持っており最終的には破壊する事はできない。だから、どんな悪人にも本心(良心)がある。ましてや、純粋に本心の響きだけをたよりにして神の理想郷に思いを馳せ、その心情を表現する事に命をかけた芸術家、音楽家、詩人、作家なども数多く存在する。そういう作品には確かに天地創造の時点への郷愁を感じさせてくれる物凄い霊的なパワーをもつ作品もあるようだ。

 すなわち、人間の心は一方で天上にも手の届くような崇高な芸術性を発揮する側面をもつが、他方では動物でも絶対にやらないような淫乱な、卑怯な、残忍な、地獄に直通するような行動を取る可能性も備えているのだ。
 自分にはそんな残忍な心は無いなどと、容易に済ませる事ができるほど簡単な問題でもない。たとえば1988年に起こった幼女連続殺人を犯した犯人に対しては、誰もが強い憤りを覚えた事と思うが、よく考えれば自分だって彼と同じ環境が与えられ、彼と同じような親兄弟の構成で、彼と同じ肉体的なコンプレックスを背負わされたとしたらどうだろうか。もちろん彼と同じ犯罪を犯したはずだ、などと乱暴な事を言おうとするわけではない。しかし、人間である以上は、誰でも何かのきっかけで一転して野獣のように変貌する可能性というものを、完全には消し去る事ができない宿命を持っているのである。

 人間は誰でも「神の似姿」という面と全く逆の「悪魔の似姿」とでもいうべき残忍で冷淡な面をもっているのだ。感動的な話に胸を詰まらせて涙を流す一方で、他人の不幸に対しては実に冷淡にふるまえる存在なのだ。神の子としての熱い血が流れる一方で、悪魔の「血が騒ぐ」のを押さえられない悲しい存在なのだ。人間は、まるで「神」という親と「悪魔」という双方の親の血を引いて誕生してしまった混血児が、どちらの親元にも戻れずにさまよう、悲惨な孤児のようである。