第3章 ユダヤ教の摂理史的意義    [選民論]

1.人類史は「第二のアダム」の誕生を求める歴史

●真の人類史はまだ出発していない

 人類の歴史をふりかえると、本来は神の子として出発すべきであったにもかかわらず、人間始祖の決定的な堕落によってサタンの血統的支配(原罪)を背負って出発するという、とんでもない難問を抱えた形で始まっていたのである。
 したがって、人類史の流れの中心的テーマは、失われた「原罪のないアダム」(第2のアダム)をもう一度地上に誕生させて人類の真の歴史を再出発するという一点をめぐって展開する事となったのである。そういう意味においては、本当の人類の歴史はまだ出発すらしていないというべきなのだ。

 もしもアダムが堕落しなければ、アダムは「神の子」となり、エバと共に真の家庭をもって「真の父」となって善男善女を殖やし、神の王国を治めて「真の王」となるはずであった。そして、それが神の言葉である「生めよ、殖えよ、治めよ」の真実の意味であったのだ。
 だから、アダムが失った「神の子」「真の父」「真の王」という立場を取り戻して、人類をサタンの血統から解放する人物が出現しなければ真実の人類歴史は出発できないのである。

 そして、アダムの罪を清算し、もう一度アダムに代わって人類史を再出発させる無原罪のアダムの再来こそ、「メシヤ(王)」とか「キリスト(救世主)」と呼ばれてきた存在の真意なのである。

 また、アダムは人間始祖としての責任を果たす事ができず、子々孫々に原罪を蔓延してしまう事となったのだが、だからといって簡単にもう一度「第二のアダム」を神が創造する事はありえない。なぜなら、人間が自らの責任で犯した罪は、当然人間自身の責任で償わなければならないからだ。「腐っても鯛」という言葉があるが、人間は「堕落しても宇宙の責任者」なのだ。簡単に取り替えのできるロボットではない。

 したがって、理論的に言えば宇宙を支配すべき人間が「天使」という立場の者(具体的にはルーシェル天使長=サタン)に霊的に支配されてしまったわけであるから、人間が天使の上に立って天使を支配しうる立場を取り戻すための条件をクリアーしない限り、サタン(堕落天使)からの霊的支配を突破する道はないのだ。もちろん、メシヤ(第2アダム)を誕生させることもできない。

 それでは、どのようにしたら人類の歴史上に「第2のアダム」としてのメシヤを誕生させる事ができるのだろうか。実際、アダムとエバが堕落したといっても、その家族の中にメシヤを誕生させるような方法はなかったのだろうか。実は、そういう問題の秘密を解く鍵になる話が聖書の中に記されているのだ。それは、アダムとエバが原罪を持つに至った物語のすぐあとに書かれている「カインとアベルの話」である。アダムの長男が次男を殺す事件・・・これは一体何を意味するのだろうか。

●カインとアベルの話が意味するもの

 「カインとアベル」の話はご存知の方が多いと思う。このテーマの映画を見られた方もおられるだろう。有島武郎の「カインの末裔」をお読みになった方もおられるかもしれない。とにかくカインというのはアダムの初めての子供で、長男である。そのカインが弟であるアベルを殺してしまうという家庭内殺人事件が起きたのだ(「創世記」4:8 )。これは一体何を意味しているのだろう。

 重要なポイントは、カインが人間始祖アダムの長男、つまり家督相続者であるという事だ。アダムはいわば「神自身の長男」の立場であった。宇宙の主人である神の長男(家督相続者)だからこそ、宇宙の主人としての権限を受けられるのである。ところが、サタンがそのアダムを霊的に支配しているので、実質はこの世界をサタンが握っているのだ。だから、アダムの後継ぎ(長男)であるカインにはサタンが霊的にぴったりとマークしているのである。つまり、サタンはアダムの子孫の系列上の後継ぎ(長男)に全部、霊的な支配権を主張し、絶対に人間が宇宙の主人になる事のないように釘をさすような動きをするのである。言い方を換えれば、サタンが人間に対して宇宙の主人としての権限を差し押さえている状態なのである。

 したがって、この世界に「第2のアダム」として無原罪のメシヤが誕生するためには、まずその家督相続権(長子権)をサタンから取り戻さなければならない。しかしサタンはぴったりとカインに霊的にくっついている。そう簡単にカインから離れるわけがない。つまり、長男カインは霊的にはサタン(ルーシェル天使長)と同じ立場に立っていると見ることができるのである。
 カインとアベルの殺人事件のいきさつを聖書の記述によって検討してみよう。

  「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って顔を伏せた。
 そこで主はカインに言われた、『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』。
 カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」(「創世記」第4章2節〜8節)

 聖書の記述によれば、弟のアベルばかりが神様に認められて愛され、兄のカインは神様に「供え物」をしても神はそれに見向きもしないという態度を取ったようだ。なぜそういうことが起きたのだろうか。この物語の謎を解くポイントは、神がカインに対して「治めなければなりません」と言ったテーマの内容が何であったかということである。

 ここで、カイン(長男)には霊的にサタン(ルーシェル)が支配しているという背景的な事実がポイントになるのである。この点を無視すると、一見不公平に見える神の態度について全く理解できなくなってしまうのだ。

 実は、自分よりもあとから生まれた弟アベルが自分以上に神から愛される姿をみて激しい疎外感、嫉妬心が生じたという長男カインの精神構造は、状況的にはルーシェルがアダムに対して感じた疎外感、嫉妬心と全く同じ性質のものなのだ。また、それがカインの背後にサタンが離れずにぴったりと付いているという現実の姿なのである。
 兄カインはこう思っただろう。「どうして弟ばかりが愛されるのだろう。俺は何か間違っているのか。俺は弟に頭を下げなきゃならないのだろうか。そんなことは絶対できない。俺こそ将来の後継者なのだ。このままだと弟に自分の位置を奪われてしまうかもしれない。そうだ、弟アベルさえこの世にいなくなれば…」と。

 どうだろう。まるで悪魔ルーシェルがアダムに対して抱いた心情と同様の心情をカインが抱いた、という心理分析が可能なのである。つまり、歴史はすでにここにおいて繰り返しているのだ。だからこそ、カインは「罪を治めなければならない」立場なのである。
 またここでもう一つ重要な事は、このカインの気持ちを本当にわかってあげねばならなかったのは、弟アベルだったということだ。アベルは、神から愛されたのだから、その愛を体得して兄の立場を深く理解しなければならなかったのである。だから図式的には、ルーシェルの立場が兄カインで、アダムの立場が弟アベルであり、人物は代わっても歴史的な罪を清算する責任は同様な形で問われているのである。

 つまり、この時にカインが自分の心に生じた思いを克服して、すなわち天使長ルーシェルの罪に由来する嫉妬心を治めて、神から伝わる真の愛と人格を示す事ができれば、その立場は天使以上のレベルの人格であるので、霊的な背後にあるサタンもその魔の手を離さざるを得なくなったはずなのである。つまり、その時にはカインはルーシェルが克服できなかったアダムへの嫉妬心を完全に克服して深い愛の次元に突破してしまうので、ルーシェルが持つ霊的な波動とカインの人格の波動が全く合わなくなり、サタンが吹き飛ばされてしまうからである。

 そうすれば、神はカインを長男(相続者)として公に認めることが可能になり、歴史的にアダムの罪が清算される道が開かれたはずなのである。もっと言えば、そこにサタンが侵入できない神聖な領域が成立するため、そのサタン不可侵圏の基盤の上に何らかの仕方で神は「第2のアダム」(メシヤ)という無原罪の人間をもう一度地上(アダムの家庭内)に誕生させる事ができたはずなのである。もちろん、そのメシヤによって他の全ての人間の原罪も清算する道ができたであろう。それが、神が企画した人類への「救援摂理」であったのだ。

 しかし、実際にはカインがアベルを殺害するという悲惨な家庭内殺人事件を引き起こす結果となってしまったので、アダムの家庭に「第2のアダム」を誕生させるという神の摂理は失敗に終わり、もう一度やり直しができる歴史的状況とそれにふさわしい信仰者(次に述べるノア)が出現するまで救援摂理を延長せざるを得なくなったのである。